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遊ぶこと:理論的陳述

D,W,ウィニコットの1968年の論文「遊ぶこと:理論的陳述」についての要約と解説です。遊ぶことが人間の本質的な性質を表しており、またそれが精神分析や治療の中でも持ち込まれることについて議論しています。

1.遊ぶことについて

精神療法と精神分析は遊ぶことの二つの領域、すなわち患者の領域と治療者の領域が重なり合ったところで行われる。精神療法と精神分析は、二人の人間が一緒に遊ぶことに関係する。その必然的な結果として、遊ぶことが不可能な場合には、治療者のなすべき仕事は、患者を遊ぶことができない状態から遊ぶことができる状態へと導くことに向けられているのである。

遊ぶことは普遍的である。そして、精神療法と精神分析とは治療者と患者の遊ぶことの領域の重なりあったところで生じるもので、二人が遊ぶことである。

移行現象と遊ぶことのつながりが明確にある。遊ぶことがいかに普遍的なことかを示している。遊ぶことの特徴が発達論的観点から語られ、遊ぶことは母親との関係から始まるものであるが、遊ぶためには対象は使用されねばならないことや「一人でいられる能力」ともかかわりがある。そして、やがては関係性の中で遊ぶようになることが述べられている。

ウィニコットは自分のかつての論文を引用し、その症例で展開していたことは遊べない子どもを遊べるようにすることだった。と語る。つまり攻撃しても大丈夫あることを経験することで、子どもは遊べるようになった。そのための設定の意義と、反対に、あまり管理的になりすぎるとことは自発性を奪ってしまうことになり、遊ぶことができないことにつながると述べている。

2.遊びとマスターベーション

本来的に欠けているにもかかわらずマスターベーションの要素は遊びと関連付けられすぎた。また、遊び(play)と遊ぶこと(playing)を区別することは重要である。両者は本質的に別のものである。重要なのは遊ぶことという経験である。

成人の精神分析においても、子どもの精神分析の場合と同様、遊ぶことをはっきりと見出そうとすべきである。それはたとえば、言葉の選択、声の抑揚、ユーモアのセンスなどに表れてくる。

3.移行現象

遊ぶことに関しては、精神分析の文献の中で居場所がみつからない何かが残されている。

ウィニコットは遊ぶことは場所と時間という要素が関与していると主張することで、遊びについての考えにしっかりしたものにした。遊ぶことは内側にあるものでもなく、外側にあるものでもない。外側にあるものをコントロールするためには、考えたり欲したりするだけでなく、何かをしなければならない。遊ぶことは何かをすることである。そのため、遊ぶことに時間と空間の概念を導入する。

移行現象については下記をご参照ください。

4.時間と空間における遊ぶこと

ウィニコットは、遊ぶことに場を与えるために赤ん坊と母親の間に潜在空間を仮定したが、潜在空間は非常に多様な形をとりうるものであり、内的世界とも、実際的・外的現実とも対比されるものである。

精神分析家にとっての重要性が、精神分析、精神療法、遊びの素材、遊ぶことの順番になっていることを覆す必要がある。遊びこそ普遍的であり、健康に属するものである。自然なことは遊ぶことの方であり、それが高度に洗練されて20世紀に現れたのが精神分析である。

5.症例提示

以下の2つの症例は特別なものでなく、論文を書いている朝に続けてきた症例である。

(1)エドモンドの症例

母親は2歳6ヶ月になったエドモンドが吃ったために、また吃ることを怖れて喋らなくなってしまったことで相談に来た。

エドモンドはコードのような紐の端を持って、プラグをさしこむような身振りをしていた。紐は分離の象徴であると同時に、コミュニケーションの通しての結合の象徴でもあることは明白だった。母親は彼が移行対象をもっていることを語った。

エドモンドは依存したり、しなかったりという潮の満ち引き似た動きをコミュニケートしていた。エドモントはコミュニケーションを受ける人がいなくても、このように遊ぶだろうが、たまたま自分がそこにいて、その場で起こったことを映し出し、それにコミュニケーションの質を付け加えた。

(2)ダイアナの症例

先天的に心臓の奇形のある弟がいた。母親は弟がダイアナに与える影響について相談にきた。ダイアナは招き入れようと扉を開けた瞬間小さなテディを差し出した。ダイアナと私との間には強力な関係がすぐに成立した。ウィニコットは、ダイアナに関心が向いていると、感じさせながら、母親の相談に乗っていた。ダイアナは遊びながらもウィニコットと母親の会話に耳を貸しており、時々口を挟んできたが、ウィニコットは治療的介入は全くせず、簡単な示唆を行ったりしながら、ダイアナが遊ぶのに任せた。

母親の方が、病気の少年のことで非常に動揺していて私と会うことに不安になっていたために、ダイアナを連れてくる必要があったのだとわかった。ダイアナはまるで自分が精神分析家のところへ来るのを知っていたかのように、私と接触するために心の準備をしていたことがわかった。

6.遊びの理論

関係性の発達の順番が、発達過程とどのように関係し、どこに遊ぶことが属しているかを述べることができる。

(1)融合

赤ん坊と対象は互いに融合している。赤ん坊の対象の見方は主観的であり、母親は赤ん坊が見つけようとしているものを実現するように方向づけられている。

(2)拒絶と受入

対象はまず拒絶され、再び受け入れられ、そして客観的に知覚される。この複雑な過程の成否は、その過程に関与し、そして赤ん坊が手離したものを再び赤ん坊に戻してやる準備のできている、母親また母親像がいるかにかかっている。

もし、母親がこの役割をある期間、支障なく果たすことができれば、いわば赤ん坊は魔術的統制という体験を、つまり、精神内の過程についての記述で全能感と呼ばれる体験をもつことになるのである。遊びは無限に感動的である。それは本来的に本能が含まれていないために感動的なのである。このことをはっきりと理解して欲しい。

これらのことは以下の「交流することと交流しないこと(1963)」に詳しくあります。

(3)一人でいられる

次の段階は、誰かと一緒にいて1人になることである。いまや子どもは、愛している者、したがって信頼している者が身近かにいるか、いったん忘れても再び思い出した時身近かにい続けてくれるのだという仮定のもとに、遊んでいるのである。そして赤ん坊は、その身近かにいる者が遊ぶことの中で起ることを照らし返してくれると感じている。

(4)領域が重なる

次に子どもは、2つの遊びの領域の重なり合うことを容認し、享受する段階への準備を進める。当然、最初に赤ん坊と遊ぶのは母親であるが、母親はむしろ赤ん坊の遊戯活動に調和しようと心を配る。しかし、まもなく母親は自分の遊びを導入する。

赤ん坊たちは、自分自身のものでない考えの導入を好んだり嫌ったりする個々の能力に応じて、まちまちであることを母親は理解する。このようにして、ある関係性の中で一緒に遊ぶことへの道が拓かれていくのである。

7.遊べるようになった女児の症例

ウィニコットは、自分が最初から遊ぶことに関心をもっていたことを「設定状況における幼児の観察(1941)」ですでにそのことを詳細に述べたことを回想し、以下にその症例を再現している。

「設定状況における幼児の観察(1941)」については下記に要約があります。

ある女の子が最初に病院につれてこられたのは、生後6ヶ月目にかなり重症の伝染性胃腸炎に罹った時であった。9ヶ月目には発作が起り、以後頻発した。1歳になっても日に4~5回の発作があり一日中、泣いていた。入念な検査を行なったが身休的疾患の徴候は発見できなかった。

ある診察時、その子を膝の上にのせて観察していた。そして再び、私の指関節を非常に激しく咬んだ。この時、まったく罪悪感を示さず、咬みついては舌圧子を投げるゲームをして遊んでいた。つまり、私の膝の上にいる間、彼女は遊びを楽しめるようになり出したのである。しばらくして彼女は自分の足のつま先をいじり始めたので、私は靴と靴下を脱がせてやった。

こうした結果が、実験の終結になった。つまり、まるで彼女は、舌圧子はロに入れたり、投げ棄てたり、なくしたりてきるのに、足の先は引き離すことができないことを、十分に納得するまで、何回も繰り返し、発見し、立証していたように見えた。

4日後に母親が、この前の診察から赤ん坊が違った子どもになってしまった、と告げに来た。彼女は発作も起さず、夜もよく眠り、ブロム化合物を飲まなくても一日中機嫌がよかった。

8.精神療法と精神分析

ここで、論文の最初の部分に回帰した、ということもできるだろう。子どもの遊ぶことと他者の遊ぶこととが重なり合う、この領域に、人生を豊かにするものを初めて経験する機会がある。治療者の場合はとりわけ、子どもの成長過程と、発達のはっきりした障害の除去にたずさわっている。

遊ぶことはそれ自体が治療である、ということを常に念頭に置いておくことは価値がある。遊ぶことは1つの体験、しかも常に創造的体験なのであり、生きることの基本的形式である時間-空間の連続体における体験である。遊びの不確かさは、遊びが常に主観的なものと客観的に知覚されたものとの間の理論的線上にある、という事実に依拠している。子どもの遊ぶことの中に全てがあるのだ。

ウィニコットはアクスラインの研究をある特別な意味で評価している。子どもが自分自身を突然発見するのはthe child surprises himself or herselfという契機なのである。患者に遊ぶ能力がないとき、解釈は無効であるばかりでなく、混乱をまねいてしまう。相互の遊ぶことがある時に、一般に受け容れられた精神分析の原理にのっとった解釈が治療的作業を前進させるのである。

もし、精神分析をやろうとするならば、この遊ぶことは自発的でなければならないし、決して盲従的であったり、追従的であってはならない。

9.遊ぶことのまとめ

遊ぶことという観念に到達するためには、幼い子どもの遊ぶことの特徴である、夢中を考えることが役立つ。その内容が問題ではない。この遊ぶことの領域は内的心的現実ではない。これは個人の外側にあるが、しかし、外的世界でもない。子どもはこの遊ぶことの領域の中に外的現実から対象や現象を集め、それらを、内的あるいは個人に特有な現実に由来する、あるサンプルのために使用する。子どもは遊ぶことの中で、その夢のために外的現象を使いこなし、選ばれた外的現象に夢の意味や感情を賦与する。

移行現象から遊ぶことへ、遊ぶことから他者と共有する遊ぶことへ、また、そこから文化的体験へとまっすぐに発展していく。遊ぶことには当然信頼が含まれている。つまり、遊ぶことは最初は幼児と母親像の間にある潜在空間に属している。その時、幼児は絶対的依存に近い状態にあり、母親像は、幼児が当然のごとく求めてくる、適応的機能を有している。

これらのことについて以下の「原初の情緒発達(1945)」をご参考にしてください。

遊ぶことは身体をも巻きこんでいる。つまり、対象を巧みに操作するためであり、ある種の強い関心は身体的興奮のある側面と関連しているためである。快感領域における身体的興奮は遊ぶことを常におびやかす。したがって、子どもの人間としての存在感をもおびやかす。

遊ぶことは本質的な満足を与える。このことは、遊ぶことが強度の不安を引き起す時でさえ当てはまる。しかし、耐え難いほどになれば不安が遊ぶことを破壊してしまう。遊ぶことの快楽的要素は、本能の喚起が極端でないという言外の意味を含んでいる。すなわち、本能の喚起はある点を越えると、クライマックスに達するか、クライマックスに達し損ねて、時間のみが治しうるような精神的混乱、身体的不快感を引き起す。遊ぶことは、体験を容れる能力の限界を指し示す、飽和点に達したといえる。

遊ぶことは本来的に感動的で不確かなものである。そして、この特徴は、本能の喚起に由来するものではなく、子どもの中にある、主観的なもの(幻覚に近いもの)と客観的に知覚されるもの(実際の、あるいは共有する現実)との間の相互作用に伴う不確かさに由来するものである。

10.議論と解説

(1)遊びについて

1968年国際精神分析誌に「遊ぶこと:臨床状況におけるその理論的重要性」との表題で発表された。その後、ウィニコット没後の1971年、論文集「遊ぶことと現実」に収録されたのが本論文である。遊ぶことはウィニコットの基本的概念の一つであり遊ぶことの性質と意義について述べたもっとも重要な論文の一つとされている。

また、ウィニコットは遊ぶことと遊びを区別しているが、遊びの中身にはそんなに関心を向けていない。クラインは遊びの内容に重点を置きすぎ、遊ぶことに目をむけなすぎであるとウィニコットは述べている。彼は創造的に生きることと遊ぶことの関連を議論し、創造的に生きることを意義を強調している。また、遊ぶことと移行対象の関連を論じる。そして、「精神療法とは、患者と治療者の二人の遊ぶ領域が重なり合うことである」という有名な警句が導かれる。

大人の遊びは言語の選択や、声の抑揚、ユーモアのセンスなどで遊ぶことは見出されるとウィニコットは主張している。そもそも遊ぶこととは何か、私たちは本当に遊べるのだろうか、遊ぶことは本質的な満足を得るのか、などについて非常に緻密に考察されている。

(2)ウィニコットの治療論について

治療論は最もウィニコットらしさの現れている箇所である。彼が患者の連想に耳を傾け、その中から核心を掴み取って、だからといってそれを解釈するわけでなく、患者が自分でそれを発見できるように導く。また、どんな精神障害にも否定的側面(すなわち、病気であるということ)だけでなく、肯定的側面もあるとみてみる。それゆえ、盗みなどの反社会的傾向をも希望の徴とみることができた。また、晩年のウィニコットが精神分析家として注目したテーマは、精神分析は何を目指すのか、そもそも人間の生きがいとは何かといった哲学的な問題が中心となっており、それと同時に、精神分析家としての思考の自由度も増している。とりわけ、解釈については精神分析においては、展開は極力患者の自発性、創造性に任せるべきであると述べている。

そして、解釈よりも一緒にいることの方がはるかに重要であるとの主張はウィニコットの思考の柔軟性、自由度の高さを感じると同時に精神分析家という枠をも軽やかに超えていったようにも思え親しみと共感を覚える。これもウィニコットの魅力の一つなのかもしれない。

11.終わりに

精神分析とウィニコットについてご関心のある方は以下のページを参照してください。