劇場版「MOZU」に見る真実の探求について

劇場版「MOZU」

劇場版「MOZU」の感想を真実の探求という視点から書いてみました。

1.真実を知ることの苦痛

劇場版「MOZU」をレンタルして鑑賞した。テレビドラマから長く続いており、非常に楽しみにしていました。劇場版で完結し、物語がまとまりを持って閉じたので納得と同時に、終わりという一抹の寂しさもあります。

劇場版「MOZU」で印象深いのが、どんな苦しい真実であっても知りたい、というセリフです。明確な言葉はどんなんだったか忘却したが、ニュアンスはこんな感じ。これはセラピーや精神分析、ひいては人生に通ずる本質ではないかと思います。

そもそも知ることそのものに苦痛は内包されているとも言えるわけで、そのことから目を背けることの方が楽ではあります。一方で楽を得るために、それなりの代償を支払うこともあり、それが精神症状になることもあります。

2.クラインとビオンから

精神分析家のクラインは知識本能と呼び、そのクラインから教育分析や個人分析スーパービジョンを受けたビオンはK(知ること)を、L(Love 愛すこと)やH(Hate 憎むこと)と同じぐらいかそれ以上に重視しました。

真実は心の栄養という表現もあります。枯渇することで、心的な死を迎えることもあります。死んでいるように生きているように見える人は身近におられたりするでしょう。もちろん、カウンセリングやセラピー、精神分析の文脈では物理的、現実的や真実・事実ではなく、心的な真実を指しています。

おそらく認知行動療法やEMDR、支持療法などの問題解決型のカウンセリングは真実から目を背けたままではあるが、もう少し柔軟で適応的な目の背け方を身に着ける手法になるのだろうと思います。といっても、これらを卑下しているのではなく、そうしたことが適しており、益することも非常に多いです。

3.真実という栄養

一方で、心的な真実を探求することは、苦痛ではありますし、時間もかかりますが、人生の立て直し、棚卸しという文脈では非常に価値があります。心的真実はいつも自身にとって優しくはありません。その真実は不都合であったり、苦痛にまみれたものであったり、耐えがたいものでもあります。

だからこそ、目を背けることになるのですが。例えば愛されてなかったが故に憎しむことで生きてきた人が、実は愛されていたという真実にたどり着くこともあります。反対のこともあります。これまで憎しむことで生きてきたという人生を否定し、あらたな人生の意味を見つけねばならなくなります。

なので、憎しみ続ける方が楽であることもあったりします。人生の行き詰まりがなければ、それはそれで良いのでしょうが、様々なライフヒストリーの中で、見直さざるをえない局面が訪れた場合、もう少し効率的な目の逸らし方を身に着けるか、もしくは苦痛な真実に目を向けるかの選択を迫られます。

真実は時に栄養だが、時に苦痛であり、それらを巡るこころの葛藤の取り扱いが非常に重要で、時として専門家である心理臨床家の手助けが必要となる場合もあります。それは単に任せるということではなく、カウンセリングの中で協同的に取り組む作業を行うという意味で重要です。

長くなりましたが、劇場版MOZUでは、そうした取り組みの営みがサスペンス映画という枠組みではありますが、どこかセラピーや精神分析、カウンセリングに通ずるものがあるのではないかと思いました。少し大袈裟かもしれませんが。

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