精神分析の定義とそれを議論することの臨床的意義について

議論から逃げるな

精神分析とは何か?については様々な議論がされてきています。そして定義の問題などは一見すると臨床的にはあまり意味があるようには見えません。しかし、定義は姿勢や技法に直結しており、極めて臨床的に重要です。ここではそうした精神分析の定義とその意味について書いています。

1.はじめに

2017-11-03から2017-11-5日に名古屋において日本精神分析学会第63回大会がありました。それに触発されたのか参加された方がツイッター上で活発に議論していました。しかし、今年は参加しなかった僕はそうした議論を見ていて、羨ましさと寂しさを感じてしまいます。やはり参加したかったですね。

その議論の中で、精神分析とは何か?精神分析的心理療法とはどう違うのか?というのがありました。これは精神分析業界において長年のテーマです。

2.定義に関連する要因

両者の違いは頻度やカウチなどの設定だけで区別できるのか?については様々な議論があります。しかし、おそらくは頻度やカウチといった設定は精神分析プロセスに影響を与える重要な要因ですが、決定的ではないだろう、と僕は考えています。

何が精神分析かそうではないのかという区別について、例えばウィニコットなどは「精神分析家が行う営為が精神分析である」と言っています。その他にも、教育分析や個人分析スーパービジョン を受けていることが精神分析プロセスを生成させ、精神分析的体験を提供できると言っている人もいます。

この精神分析的体験が得られるか否かを精神分析の定義や基準に考えている人もいます。ただ、それは内的な問題なので、明確な線引きができるものではありません。

そして、精神分析や精神分析的心理療法で得られる体験は、まさに、精神分析的体験としか言い得ないものであるかもしれません。

3.定義を考えることの重要性

しかし、一方でそれを明確に分かりやすく日常言語で語り、説明しないと、この情報社会や知識社会では存続しえないだろうと考えます。

そもそも、患者さんやクライエントさんにとっては精神分析とは何か?などの議論はさして重要ではなく、自分自身の問題が解決できたら何でも良いというのがホンネでしょう。

ただし、だからと言ってこの議論には意味がない、とは思いません。カウンセラーが真に意味のある体験を患者さんやクライエントさんに提供できるのか、に深く関わっているからです。精神分析的であろうとする姿勢は臨床技法にも通じます。

臨床技法をある程度適正に提供することは、目的を達成できる確率を高めることができます。

極論すると患者さんやクライエントさんにとってはエビデンスも実はさして重要ではなく、良くなるならエビデンスのないことや薄い方法でも良いのだろうと思います。

しかし、カウンセラーがエビデンスを参照する姿勢があるからこそ、ある程度適正な技法を提供でき、それによって改善の可能性を高める、という意味で重要なのです。カウンセラーの臨床哲学や姿勢はその点からも議論すべき課題です。

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