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精神分析と演劇

精神分析と演劇における人間の成長と変化について書いています。演劇の歴史を振り返り、フロイトの演劇論をベースにし、同一化や転移という概念が人間の成長と変化において決定的に重要な役割を担っていることを論じています。これらのことは精神分析でも演劇でも同様であることを示しています。

1.演劇の起源

演劇の起源は非常に古いようで、一説には古代の儀式の際の巫女の舞が起源とされています。また、別の説として、古代宗教が成立する以前の遊戯や遊びを起源としているのではないかということも言われています。いずれにせよ、非常に古くからあることが分かっています。

その後、紀元前5世紀頃に古代ギリシアにおいて、ギリシア悲劇が成立しました。これが現代演劇の直接的な起源であると言えるでしょう。そして、この時代のアリストテレスは演劇をカタルシスという側面から論じています。

また、それ以降の古代ローマではこれらに娯楽性を付加し、大衆に浸透していきました。

中世になると、キリスト教により演劇は悪とされるようになりました。このため、演劇は表舞台からは姿を消し、旅芸人の出し物や大衆芸能の一つとして細々と受け継がれるのみとなってしまいました。

その後は、ルネサンスを経て、再び表舞台に戻り、高度な脚本や舞台装置といったことが開発され、現代演劇につながっていきました。

現代演劇については日本大百科全書(ニッポニカ)によると以下のように説明されています。

現代演劇の概念をどこまで広げるかについては一定しない。現代をコンテンポラリー(同時代)の意味にとれば、その範囲はかなり限定され、場合によっては1960年代以後の肉体の復権を主張する流れだけをとらえることも可能であろう。従来の演劇とは異なった「別の」演劇としての現代性はこの方向のほうがより鮮明である。しかし、普通には近代劇の名で総括される自然主義までの演劇に対立して、19世紀末から始まる新しい傾向の演劇を現代演劇の出発点とみなすのが通例である。イプセンや自然主義の演劇は、社会問題を提起し、演劇を容赦ない真実追究の場にしたという点では、劇場に新しい意味を与えたが、形式的には、覗き見舞台という考え方、つまり舞台を現実らしく思わせるというイリュージョニズムを踏襲し深化することになった。

(引用文献:日本大百科全書(ニッポニカ)

2.精神分析の起源

フロイト

一方で精神分析の起源は20世紀初頭のフロイトであるといえるでしょう。ヒステリーの治療方法として精神分析が成立し、夢の解釈を通して、無意識に接近する方法として確立しました

精神分析の歴史については以下に詳しく書いています。

3.フロイトの演劇理解における同一化

骸骨と泣いている女性

フロイトは自身の創始した精神分析を芸術の分析に応用していきました。「ミケランジェロのモーセ像(1914)」では彫刻をテーマに、また、「W.イェンゼン著グラディーヴァにおける妄想と夢(1907)」「不気味なもの(1919)」「ドストエフスキーと父親殺し(1928)」では小説をテーマに精神分析を適用しました。さらに、「詩人と空想すること(1908)」「レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期の想い出(1910)」では芸術家そのものをテーマにしました。

フロイトは演劇について言及していることはかなり少ないのですが、その内の一つに「舞台上の精神病質的人物(1905-1906?)」があります。

その中でフロイトは演劇について以下のように述べています。

観客は現実の人生において功名心の炎を鎮火させるよう追い込まれたり、他のものへと置き換えざるをえなかったため、すべてを自分の思うがままに切り盛りできるような主人公(英雄)になりたいと望んでいるとみなす。そこで詩人と俳優が団結して、観客が主人公と同一化するのをかなえてやることによって、この望みを可能にしてやるというわけである

(引用文献:S,フロイト 舞台上の精神病質的人物(1905-1906?) フロイト全集9巻 岩波書店

ここでフロイトはよく使われる投影ではなく、同一化の観点から演劇を理解しています。この点が非常に重要であると私は考えます。

投影は映画の映写機のように、何もないスクリーンに影と光を放出し、あたかも何かがあるかのように見せるものです。つまり、これは心の中のものを排出するということにつながっていきます。その後のクライン派や対象関係論では、この投影と排出によって心が枯渇していく病的な状態を描き出していきました。

それに対して、同一化は他者の自分にはないものに対して向けられます。そして、それに同一化することで、自分の中にそれを取り入れ、自分のものにしていきます。子どもは特に両親や年長者に対して同一化を行います。それが子どもを成長させていくのです。同一化は心の発達と成長という側面においては無くてはならない機制であり、投影とは反対に心を豊かにしていきます

4.同一化の理論

箱の中の猫

(1)ビオン理論における同一化

ビオンによると、乳児の言葉にならない苦痛(β要素)を母親が受け取り、乳児が受け取りやすい形に変形し(α機能)、乳児に差し戻すことにより、乳児は苦痛を自ら抱えていけるようになる、というモデルを示しました。これをコンテイニング理論と呼びます。

乳児はこうした母親の役割を通して、思考を発達させ、結果的に言葉を獲得したり、精神的な成長を遂げたりします。

しかし、それだけではなく、母親のα機能そのものにも同一化し、それを自らのものとしていきます。ですので、いつまでも苦痛を母親に抱えてもらうだけではないのです。こうした同一化があるからこそ、成長と発達があるのです。

(2)同一化とモデリングとの相違

学習理論の中にモデリング(観察学習)というものがあります。これは自らが経験したり、体験したりしていなくても、他者が行っているところを見るだけで、それを学習するというものです。このモデリングが備わっていることで、人間は飛躍的に進歩を遂げることができたと言えるでしょう。

さて、このモデリングは同一化と同じものなのでしょうか。答えは「否」です。モデリングは実際に目に見える行動や態度、方法、やり方です。つまり、単なるスキル的なことの学習に過ぎません

一方で同一化が向けられる他者とは、両親や養育者などの身近な人物であり、それなりに思い入れのある人物です。また、同一化は目に見える行動や態度、やり方ではなく、ビオンのコンテイニング理論でも示したように、他者の内的な素質や能力、心持ち、アイデンティティなどです。

こうしたところが同一化とモデリングの相違点と言えるでしょう。

(3)同一化の病理的側面

この同一化にも病理的な側面はあります。例えば、自閉スペクトラム症は他者やモノの表面的な側面を模倣的に同一化してしまいます。他者の言ったことをそのまま繰り返すエコラリア(オウム返し)などはその典型例でしょう。ここには全く葛藤は見られません

こうした機制をE,ビックやD,メルツァーは附着同一化と呼びました。この附着同一化は表面的な模倣をするだけであり、そこには成長や発達はありません。

5.同一化とリアリティ

笑う女性

さて、フロイトは演劇の本質を同一化としました。そして、この同一化は成長や発達において必要不可欠な要素でもあります。さらに一点、追加すると、同一化には葛藤や苦痛が孕んでいます

例えば、子どもは両親に同一化し、成長しますが、そこには葛藤があります。フロイトはこれをエディプス葛藤やエディプスコンプレックスと呼びました。同性の親を排除し、異性の親と親密になることを子どもは欲します。しかし、それは同性の親との対立があり、その後の敗北と和解を通じて、子どもは成長します。

対立、敗北、和解の中には屈辱もあれば、不安や恐怖もあります。つまり、苦痛と葛藤に満ちているということです。しかし、この苦痛と葛藤があるからこそ、子どもはリアリティを感じます。言い換えると手応えということもできるでしょう。このことが子どもに単なる模倣(附着同一化)ではなく、真の発達と成長をもたらしてくれます

6.演劇と同一化

笑っている二人の女性

演劇では、観客は役者や役に同一化し、役者は役に同一化します。演劇は映画やテレビなどとは違い、まさに目の前で、手の届く距離で展開します。そこには息遣いや雰囲気、姿の細部などが詳細に感じ取ることができます。これがリアリティの大部分を担う要素となっていることでしょう。

演劇を見ることで、演じることで、同じようにハラハラしたり、感情的になったり、感傷的になったり、哀しくなったり、怒りたくなったりします。これは投影ではなく、役の中にある情緒的なものを役者は同一化していますし、観客は役や役者に同一化しているのです。言い換えると心の滋養を得ているということもできるでしょう

子どもの発達において同一化が重要であることは前項で強調しました。そして、発達することで、前と後では本質的な変化が生じます。それと同じように、演劇においても観る前と観た後とでは同一化を通して本質的な変化が生じます。アリストテレスがいったように、演劇を見て、良かった、面白かったという単純なカタルシス効果を得ることではありません。それ以上の発達と成長があるのです。同一人物ではいられないのです。

7.演劇と転移

二人の男性と夕日

精神分析には転移という概念があります。転移とは幼少期に養育者などの重要な人物との間で形成される人間関係の原型のようなものです。この人間関係の原型が、その後の人間関係に影を落とし、原型にそった形で展開し、反復します。どのような人に対しても同じような思いを抱き、同じように関係をもち、同じような結末に至ってしまいます。

そして、この転移はカウンセリングなどの治療関係においても同じように反復します。クライエントはカウンセラーに転移を持ち込み、これまでと同じような人間関係をカウンセラーとの間でも反復しようとします

フロイトは当初、「あるヒステリー分析の断片-ドーラの症例(1905)」に記載されているドーラという少女との精神分析の中で、この転移を発見しました。フロイトはこの転移を治療する上での障害であるとしました。しかし、その後、転移を通して、そのクライエントの病理やパーソナリティを理解し、働きかける重要な要素であると転換しました。今では精神分析をする上で転移概念は無くてはならない重要なものとなっています。

さて、転移は人間関係の原型であると述べました。人間はその原型にそった行動や態度姿勢を繰り返します。つまり、転移は演劇でいうところの台本や脚本であると言えるでしょう。演劇は台本にそって、役を演じます。翻っていうと、転移という台本を元にし、人生という演劇を演じ続けるのが人間であると言えます。

身近な人や友人に何人かはいるかもしれませんが、いつもいつも同じような失敗を繰り返す人。同じような異性に惚れて同じように振られてしまう人。同じような会社に就職し、同じようにうまく行かなくなって、同じように退職する人、など枚挙にいとまが無いかもしれません。

こうした同じことを繰り返すことは苦痛と哀しみの連続であるでしょう。また、他者からみると、同じことを繰り返すことにはある種の滑稽さもあるかもしれませんが、そうしたドラマに共感や感動が生じることもないわけではありません。

岡田(2008)は「転移劇としての治療」のなかで心理療法における転移/逆転移関係を劇という文脈でとらえなおし、治療的な意義を強調しました。岡田はウィニコットを引用しつつ、転移/逆転移関係を劇としてとらえることが治療的に有用であると述べています。

転移/逆転移の現象は、ひとつのプレイという意味での「劇」として、象徴過程につながる重要な体験的な出来事として扱われるのがよいと思う。それが非日常的な仮構性をもつがゆえの真実性を示すことは、実際の演劇が観客に及ぼす効果と等価でもある。この観点は、とくに思い病理水準の症例が引き起こす厄介な転移現象を理解していくためにたいへん有用であると思う。

引用:岡田敦(著)「第8章 転移劇としての治療」 氏原寛、成田善弘(編)「新版 転移/逆転移-臨床の現場から-」 人文書院 2008年

8.転移と台本に孕む個性と創造性

走る男女

転移が原型に従って、あたかも演劇の台本のように、同じことを繰り返すことを示しました。しかし、同じことを繰り返すといっても寸分たがわず、全く同じであることはありません。対象や状況、タイミング、心持ちなどによって差異が生じます。逸脱ということもできるでしょう。

これは演劇でも同様でしょう。役者は台本に沿って演技をします。しかし、その時のコンディションや心持ち、もしくは意図的な施策によって、演じる在り方にも差異が生じることでしょう。同じ役を演じたとして、役者によって差異が生じます。これは音楽などでも同様でしょう。同じ曲目を演奏したとしても、演奏する人によって相当の違いが出てきます。

この差異や逸脱というのが非常に重要で、この中に原型とは全く違う、その人の個性やユニークさが垣間見れるのだと思います。さらにいうと、芸術性や創造性、美的体験も含まれるのでしょう。人はそこに感動します。

9.転移の修正

相談する女性

精神分析では、転移を修正していくことが目的の一つになります。では、その修正とはどのようにしてなされるものなのでしょうか。

(1)転移解釈

転移に気付くということは重要な要素であることは間違いありません。しかし、気付くと言っても、転移を指摘するだけでは十分ではありません。それは意識的に気付くだけだからです。

精神分析では変化を生じさせる技法として、転移解釈を特権的な位置に置いています。これはストレイチーの「精神分析の治療作用の本質(1934)」で詳細に論じられて以降、精神分析の中心と伝統となっています。しかし、一方で転移解釈以外にも変化を生じさせる技法についても提起されています。何が本質的な変化を生じさせる技法なのかについての議論をすると非常に多岐にわたりますので、ここではそれ以上のことには触れません。

(2)転移を生きる

転移を修正するためには、逆説的ではありますが、まずはリアリティをもって、生々しく転移を体験し、転移を生き、そして、生き残ることが必要でしょう。つまり、カウンセラーもクライエントの転移という台本に従い、転移の舞台に上るということです。クライエントの転移に強引に逆らい、全くそれに取り合わないことはナンセンスです。演劇でも、全く台本を無視しては演劇として成り立たないことと同じことです。

そして、転移というリアリティを十分に体験し、葛藤も苦痛も同時に味わうことで、生きた存在として転移に気付くことができるでしょう。転移を築きあげざるをえなかった経緯や歴史、事情を共感をもって理解することができます。そこには哀しさが必ず孕んでいることでしょう。

また、台本との差異が個性や創造性であるということを指摘しました。転移では説明がつかない触れあいにこそ、個性や創造性を発見することができます。そして、それが転移を修正した後の、その人らしさへとつながっていくものです。

そして、新たな同一化の対象としてのカウンセラーもいるかもしれません。繰り返しますが、単なる模倣の対象ではなく、葛藤的な他者としてのカウンセラーとの同一化であるがゆえに、成長や発達へと至ります。部分的に同一化の過程をカウンセラーと取り組みなおすということもできるかもしれません。

こうしたことが、ゆっくりではありますが、しかし、着実にクライエントに変化が生じる過程となっていくでしょう。

同様に、役者は演劇の台本を順守しつつ、少なからずの差異や逸脱が生じます。そこにその役者の個性が見いだされ、役者としての成長と発達が続いていくのではないかと思います。役者も役への同一化とそこからの差異と逸脱をとおして、本質的な変化が生じるのでしょうし、それを創造性といっても良いと思います。

10.最後に

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本論考では、演劇を同一化と転移から読み直しました。精神分析と演劇の共通性として、転移と台本についてまずは論じました。そして、それからの差異や逸脱が個性へと至るものであると指摘しました。その過程に決定的に重要な要素として同一化を挙げ、同一化の前と後とでは本質的な変化が生じます。それには創造性が孕んでいることを明らかにしました

本論考は元々、シアター風姿花伝がプロデュースしていた「ミセス・クライン」という演劇に端緒があります。私も招待され、観劇しましたが、非常に感銘と感動を受ける作品でした。しかし、これは残念ながら2020年12月20日に既に劇終しています。

この中の一つのプログラムの「人間の心理、精神を扱う識者による『ミセス・クライン』を多角的に考察するシンポジウム」に私、北川が登壇しました。そこで、精神分析と演劇について討論するということがあったので、あらかじめまとめておきました。しかし、当日にはほとんどそれを話すこともなく、アドリブでその時に思ったことや感じたことを話すことに終始しました。

そして、まとめていたことはボツになりました。

ただ、まとめたことをそのままボツにするというのは勿体無いということで、あらためてここに整理し、論考という形にして、掲載しました。演劇というのはこれまであまり触れたことのない芸術でした。しかし、この機会に触れることができ、また思索を深めることができ、貴重な体験となりました。御礼申し上げます。

また、こうした精神分析的心理療法を受けてみたいという方は以下の申し込みフォームからご連絡ください

参考文献

この記事は以下の文献を参考にして執筆いたしました。