心的生起の二原理に関する定式
S,フロイトの1911年の論文「心的生起の二原理に関する定式」についての要約です。心の機能としての快原理と現実原理を整理しました。
1.論文の背景と概要
1911年に発表されたこの論文は、精神分析のよく知られた古典の一つであり、フロイトの著作の中でも重要な位置を占める、代表作の一つと数えられることも多い。しかしそれは、フロイトがこの論文の発表により新たな境地を開拓したからではなく、フロイトが10年以上もの間をおいて、臨床的知見から得られた、全般的な理論仮説の議論を展開したものであったからである。
フロイトが初めてそうした議論を広範囲にわたり展開したのは、1895年の「心理学草案(1895)」の中の神経学になぞらえた言い回しによるものだったが、それはフロイト存命中には公刊されなかった。そして1900年の「夢解釈(1900)」は類似の仮説を踏み込んで解説したものだったが、それは心理学用語で書かれていた。本論文の多くはそれら2つの原典から直接引用されている。
この論文の中心的テーマは、心的な一次過程と二次過程において、優位を占め統制を担っている二原理(快原理と現実原理)の区別であり、心が持つこの2つの傾向を原理として一般化することであった。とりわけ、無意識においては、一次過程が常に動いているという点が、フロイトが最も主張したかったことであろう。
しかし、この論文を手がけたのは1910年6月だが、実際に書き始めたのは12月になってからであり、完成は1911年1月であった。論文のテーマは既に1910年10月26日、ウイーン精神分析協会において講演されたが、そこでの聴衆の反応は鈍く、フロイト自身も発表に満足しなかった事が論文の取り組みに影響していたようだ。
2.現実世界の心理学的意義
神経症者は現実全体、あるいはその一部に耐えることができず、現実に背を向ける。精神分析において、抑圧という過程を導入したことによって、神経症の発生における現実機能の喪失(障害)と神経症の基本的条件との関連を洞察できるようになった。
「人間一般が現実に対して持つ関係を、その展開の経緯について研究し、現実世界の心理学的意義を理論体系の中に組み入れること」がこの論文の課題である。無意識の思考過程は快原理が支配する一次過程の思考であり、発達早期の乳児はこれのみを持っている。快原理に従えば、精神は快感を得るためにのみ働き、望むものは幻覚的に与えられ、不快を起こす思考内容(=表象)は、即座に意識から排除される(=抑圧)。
幻覚によっても満足が得られないという幻滅により、幻覚による満足=快原理を放棄し、現実原理を発動させるしか無くなる。それは望むものが与えられる事ではなく、与えられないという事実である。
3.自我機能の発達
現実原理が発動すると心的装置は一連の調整機能として、外界を捉える感覚器官とつながる「意識」が、快―不快に加えて感覚質を捉える様になる。注意、記憶、判断、と言った知覚が進展し自我機能を発達させていく。与えられていないという事実、現実に効率よく働きかけるための知覚や運動機能が発達していく。(ex.お腹が空いたら泣いて体を動かすのではなく、冷蔵庫を開ける。)
4.リビドー経済論
心的装置はエネルギー消費の節約という経済原理に還元しうる。現実原理の発動後も快原理を放棄せず固守する為に、思考活動が一種類切り離されて、これまでどおり快原理に服したまま止まる。子供の遊び。白昼夢。(ex.イエローローストーン公園)耐え難い現実をからの逃避としての神経症の症状。
5.二原理の交代
二原理の交代は、全領域で一挙に起きるわけではなく、性欲動は自体性愛と潜伏期により自我欲動より長く快原理の支配下に止まる。その為に性欲動と空想、自我欲動と意識活動に密接な関係が生まれる。抑圧が(空想の世界では万能であり続け)不快な表象への備給を、その発生段階で、意識以前で制止する。(ex.エディップス葛藤)
神経症につながる心的素因の本質的部分とは現実の尊重へと性的欲動を教育するのが遅れた事に加え、この遅れを可能にする条件(自体性愛と潜伏期に置ける空想と抑圧の過程が発達する)によるものなのだ。
6.快原理の行方
快原理が現実原理に取って代わられると言うことが実際に意味することは快原理の廃絶ではなく、確保に他ならない。不確かな快は放棄されるものの後に来る確かな快を新しい方法で獲得せんが為である。
宗教における地上の快を断念すれば、彼岸でそれが報われると言う教えは、心的な変動を投射したものに他ならなず、宗教が快原理の克服に、来世での補償を盾に、実生活では快を断念させることは成功しなかった。最初にこの克服に成功したのは科学(=精神分析)である。
例えば、厳しい父親のとの狭間で萎縮していて、母親による宗教的な教えによって柔和になっている思春期の男子生徒の例では、同級生が乱暴になり、教室で乱暴な言動にさらされる事で、不登校になる。内的な欲求不満、自身の怒りが外界のよるものと考えている。父との葛藤は抑圧していて内的な感情と気がつかない。
7.教育の意義
教育は快原理の克服と現実原理による代替えに向けた鼓舞である。教育が自我に降りかかった発達過程を支援し、教育者の側からの愛顧=目をかけて引き立てて貰うという方策を用いるのはその為である。
8.芸術家
芸術家は、欲動満足の断念とは折り合わず、空想生活の中で、性愛的、野心的な欲望を叶え、現実に背を向ける様な人間である。しかし、才能によって、空想を一つの現実へと造形する事で、現実世界へ帰ってくることが出来る。
彼が二原理の和解を達成できるのは他者が快原理を断念する不満を持っていると言う現実があるから。(ex.画家志望だが生活できない男性の事例。現実との折り合いが付かず安定感がえら得ない状況が続く。)
9.神経症
神経症の選択は、神経症の発症の素因となる発達の制止が、自我と性欲動、両方の発達段階のどの時期に起こったかにかかっている。(発達論につながる)
10.現実と空想
抑圧された心的形成物の中に現実評価を持ち込んだり、空想が単に現実ではないからという理由で、症状形成に果たす空想の役割を軽視したり、実際に犯罪が行われた証明がされないからといって、神経症的な罪悪感を別のところからひきだしてきてはならない。ある国の調査をする際にはその国の通貨を用いる義務がある。我々の場合は神経症的な通過である。父が亡くなった後の夢の例では、快原理で解釈する
11.議論
この論文はフロイトの論文のサマリーのような構造である。自我や、乳幼児の内的世界などの現代的な研究者や臨床家の論文とも繋がるように思えるところもあり、朧気にではあるがフロイトの着想の深さと広さがうかがえる。夢解釈、心理学草案、性理論などを再度読むことが必要である。
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「二原理は、人間のあり方の根本にある願望のメカニズムを喝破している。」という表現は二原理を分かりやすく理解できる。
二原理を、快原理は欲動と捉えると、「人はパンのみにあらず」おっぱいや性欲などの快原理だけでは生きていないのではないだろうか。しかし、「求めよさらば与えられん」という聖書の言葉にある、一生をかけて求めるものは得られるという実感があり、快感をどのように整理するのかが課題である。
日本語訳が原則から原理へと変更となっている。原理というと非常にシステマティックな意味合いをもっているが、本論文ではこの二原理はそのようなものと理解することができるのだろうか。おそらくはフロイトはそこまでのことを考えず、原則的な意味合いとして使用していると推察される。
12.さいごに
こうした精神分析について興味のある方は以下のページを参照してください。