カウンセラーの倫理への垣根の低さ
カウンセリングの仕事をしていると、世の中の道徳や倫理と一般に言われているような事柄に対して、その垣根が多少低くなっていくように思います。その理由と、そうであることの効用について述べます。
1.不道徳と非倫理の許容
例えば、
- 親は敬うべき
- 浮気や不倫はしてはダメ
- 人を憎んではダメ
- 人に嫉妬してはダメ
- 偏った性癖はおかしい
- 人を殺してはいけない
- 頑張らないといけない
- 仕事をしないといけない
- 学校に行くべき
- サボってはいけない
- 怠けてはダメ
- 犯罪はダメ
- などなど。
こうした、ある種、非道徳的で非倫理的な事柄について、おそらく世の中では多かれ少なかれ批判、非難します。時には、口にするだけで戒められたり、諭されたり、そんな事を言ってはダメと説教されたりすることもあります。
確かに法を犯すようなことは許容はしませんが、こうした非倫理的なことを考えたり、空想したり、一部行動したりすることをカウンセラーは、そのまま受け取り、非難することなく耳を傾けます。
2.空想の尊重
おそらく、世の中の道徳観念とは別の基準を大事にしているからかと思います。別の基準とは、目の前のクライエントの個別の心的空想や人生、生き方を尊重することでしょう。
そして、そうした空想を持つことの意味や意義を掘り下げ、これまでのパーソナルな歴史の中で積み上げてきた記憶、時には傷付きに触れて行くことが、カウンセリングという営みなのだろうと思います。
世の中の倫理や道徳を超えるところに、そのクライエントのパーソナルな部分が垣間見れます。ある種のクリエイティブな芸術などはそれと重なるところも多いかもしれません。
そうしたカウンセラーのスタンスがあるため、クライエントは世の中ではなかなか口にしにくいことをカウンセリングの中で吐露することができます。もちろんそのにはカウンセラーとクライエントとのパーソナルな関係性が基盤としてあるのは当然です。
3.カウンセリングの効用
吐露することそのものがカタルシスになることもあるでしょうし、吐露したものをカウンセラーが咀嚼して投げ返されることで自己理解に繋がることもあります。心に棲わせることができる形で共有できることは体験せねば分からないようなものかと思います。
こうした営みを通して、よりパーソナルで、よりその人らしい生き方になり、以前よりも肩の力を抜いて生活できるようになることはカウンセリングの目的でもありますし、意義でもあります。そして、そうした変化はカウンセリングをしていると、そう珍しいことでもないでしょう。
カウンセリングはこうした面を強調すればするほど、医療の中には位置づけにくくなりそうです。広くは健康増進法に近いものになりそうです。
4.カウンセラーは変人
また、非倫理的なことへの垣根の低さがあるからか、カウンセラーは良く言えば自由人が、悪く言えば変人が多いように思います。私自身は自分のことを意外と真っ当と思っていますが、周囲の人の評価を見聞きすると、どうやら変わっている部類に属しているようです。
世間ズレしていたり、社会性がなかったり、組織の中では生きづらかったりするカウンセラーは多いかもしれません。しかし、そうした特性がクライエントの心に対してオープンに付き合うことができる素地になっていることは確かなことだと思います。
言い換えると、カウンセラーはあの世のこの世の境界に棲んでいるとでも言えましょう。そうした人がカウンセラーになるのか、それともカウンセラーになるからそうなるのか。おそらく、双方向的に作用はしてそうですが。
カウンセラーはカウンセラー以外の仕事は無理だとは言わないまでも、恐ろしく困難になるでしょう。まさに不適応に陥りそうです。こうした境界人はおそらく人間がいる限り、無くならないのではないかと思います。
そういう意味では教育分析やスーパービジョンを訓練で受けると、さらに心や振る舞いが自由になり、カウンセラーとしても深みが増していくでしょう。
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