現代社会と集団力動
フロイトの1921年の論文である「集団心理学と自我の分析」について書いています。フロイトの集団についての理解は現代社会についても相当、当てはまるところがあるのではないかということについて論じています。本論文はフロイト全集〈17〉1919‐1922年―不気味なもの、快原理の彼岸、集団心理学に収録されています。
1 フロイトと私
「集団心理学と自我の分析」の要約や解説については下記をご覧ください。
フロイトの1921年の論文「集団心理学と自我の分析」を読み始めました。おそらく、この論文を読むのは3回目です。1回目は1人で、2回目は神戸の時の古典を読む会で、そして今回の3回目は横浜精神分析研究会の文献講読のために読んでいます。
2 集団の病理
まだ最初の方ですが、集団について、散々と酷評しています。人々は集団になると興奮し、分別がつかなくなり、非論理的になり、感情的になり、短絡的になり、云々と。確かにそういう面はあるかもしれません。
百年前にフロイトが書いたものですが、現代でもそう変わらないところはあるかもしれないです。
民主的なことを求めている集団が非民主的な振る舞いをしたり、平和を訴えているのに暴力的なことをしたり、人権を大事にすることを目的にしている集団なのに人権侵害を平気でしたり、対話を重視するといいながら脅迫的に支配しようとしたり、個人を尊重するとしながら弾圧したり、と。枚挙にいとまがないくらいです。
現代風にいうと妄想分裂ポジションに留まっているとでも理解できそうです。こうしたことを見ているとフロイトの観察眼は鋭いと言わざるをえないです。
3 集団に対する希望
しかし、一方でビオンのグループ研究のように、ワークグループになることも潜在的には秘めてかもしれない、と希望を持つこともできます。それは我々臨床家が事態を観察すると同時に参入し、その場に留まり続けることで変形をもたらす可能性でしょう。
4 難解さへの魅惑
今回の「集団心理学と自我の分析」は岩波版の全集で読んでます。人文書院版に比べて、非常に読みやすいように感じます。何より文字が大きいだけでもありがたいですね(加齢を感じます)。
ただ、言い回しや表現が堅苦しく、わざと難解にしているようにさえ思えるところもあります。おそらく、全集の訳者は哲学の先生やラカン心理学の先生が多く、臨床家ではない、というのが主な理由でしょう。
難解な表現を用いることにより、権威的に振る舞うことができ、特権的に知識を独占できる、という耐え難い魅力を感じることができるのでしょう。穿った見方ですが。
反面、臨床家は個々の患者クライエントを大切にする傾向があるので、より分かりやすく、より平易に、より共有しやすいことを目論みます。ウィニコットなどはその最もたるものだと思います。タームを日常用語で用います。それにより、多義的になってしまっているという評価もありますが。
ちなみにフロイトの論文も実際には「論文」ではなく、「エッセイ」という位置付けになることもあります。フロイトはドイツ語では日常的に使われているものを使用したりしています。例えば「自我」はドイツ語で「わたし」。「エス」は「それ」という言葉で表されるものです。
このあたりは哲学者、ラカン心理学者のせいばかりではなく、ストレイチーが英訳した時に、そうした訳語を充てたことも大きく影響しているでしょう。