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不気味なもの

フロイトの1919年に書かれた論文「不気味なもの(Das Unheimliche)(The’Uncanny’)」の要約と解説である。どういうものに不気味さを感じるのかについて論じている。不気味なものとは馴染みのあるもので、抑圧されていたものが再び現れた時に不気味さを感じるのだ。

1.不気味なもの(1919)の要約

(1)第一節

不気味なもの:驚愕させるもの。不安や恐怖を引き起こすもの。厳密に定義されて使われることはなく、不安を引き起こすもの全般について同じように語られることが多い。

⇒ その使用を正当化する独特の核となる何かが存在するのではないか。

a.二つの分析方法-語彙論と事例論

第一の道:言語の発展において、「不気味な」という語にどのような意味が与えられてきたかを調べる。

第二の道:我々の内に不気味なものの感情を呼び起こす事例に共通する特性を探し、不気味なものの隠された性格を推測する。

両方の道は同じ結論に通じる:不気味なものは、旧知のもの、昔から馴染みのものに起因する。

⇒ どのような条件下で馴染みのものが不気味なものになるのか。

ドイツ語の「unheimlich(不気味な)」は、「heimlich,heimisch(我が家の),vertraut(馴染みの)」の反対語である。あるものが恐ろしいと感じられるのは、馴染みがないものだからと予想できるが、全てがそうであるわけでない。

⇒ 新しいもの・馴染みのないもの + ◯◯ → 不気味なもの

イェンチュの主張:不気味なものという感情が発生するための本質的条件は、知的な不確実さにある(不気味なものとは、人がそこでは事情に不案内であるものである。状況に通じているほど、その状況から不気味さの印象をうけることは少なくなる)。

外国語の用例検索:多くの外国語には不気味なものを示す単語が欠けている。

様々な外国語の「不気味なもの」を調べた後、ドイツ語の「不気味なもの」について・・・

「heimlich(馴染みの、内密の)」の意味に多様なニュアンスがあるものの、反対語のunheimlich(不気味なもの)と重なり合う点に着目した。heimlichという単語が一義的ではなく、二つの圏域(馴染みのもの・居心地良いものの圏域と、隠されたもの・秘密にされているものの圏域)に属している。

⇒ 隠されたままに留まるべきなのに現れてしまったものは不気味だという点に着目した。事例研究へ。

(2)第二節

不気味なものの感情を明瞭に呼び覚ますような人物、事物、印象、出来事、状況などを吟味する。

イェンチュが主張する知的な不確かさ:一見すると生きている存在が、本当に生命が吹き込まれているのか疑わしいケースと、逆に、生きていない事物がもしかして生命を吹き込まれているのでないかと疑われるケース

  • 蝋人形、精巧に作られた人形、自動人形が感じさせる印象
  • てんかん発作、狂気の表現にまつわる不気味さ

⇒ イェンチュの視点に基づき、ホフマンの小説『夜景作品集』に収録の「砂男」に焦点を当てる。

a.ナターニエルの少年期の体験と運命について

知的な不確実さという視点:不気味なものの感情が直接結びついているのは、砂男の姿に眼球を奪われるという表象にあり、イェンチュの言う知的な不確かさとは何の関係もない。この不気味さの効果の理解には、全く役立たない。

精神分析的な視点:眼をめぐる不安、盲目になるかもしれないという不安 – 去勢不安の代替物。砂男の代わりに恐怖の対象としての父親-去勢は父親によってなされるとみなされる。砂男にまつわる不気味なものを子どもの去勢コンプレックスから来る不安によるものと考える。

⇒ 他の実例についても同じような推論ができるかを検討する。

実例(1) 生きているかに見える人形

砂男の不気味さは、少年の去勢コンプレックスの不安によると考える。不気味さの感情の発生には、このような幼児期の要因がある想定してみる。

イェンチュの指摘:あるものが生きているのかどうかについて、知的な不確実さが呼び覚まされることが、不気味なものという感情が生まれるためにもっとも好ましい条件であり、生きていないものが、生きているものと類似しているときに、この感情がとくに生まれやすい。

砂男で注目すべきところは、子どもの昔の不安が喚起されることだったのに、生きている人形では不安にならない。子どもは自分の人形が生きていることを恐れていないのであり、おそらく生きていることを望んでいすらいる。とすると、不気味な感情の源泉は、子どもの不安ではなく、子どもの欲望に、あるいは子どもの確信にすぎない。

実例(2) ドッペルゲンガー

ランクの研究:ドッペルゲンガーが鏡像や影像、守護霊や心理学、死の不安とどのような関係にあるか。ドッペルゲンガー:自我の消滅に対する保障、「死の力を断固否認すること」、「不滅」の魂とは、肉体の最初のドッペルゲンガーだった。

ドッペルゲンガーの観念は、自我が発達するとともに新たな内容を獲得する。自我のうちに次第に別の審級が形成され、自我とその他の部分と対立するようになる。この(超自我という)審級は、自己観察、自己批判し、心的検閲の仕事を行い、私達の意識には「良心」として現れる。観察妄想という病理的事例では、この審級が孤立して自我から分裂する。

このような審級が存在し、残りの自我を対象のように取り扱うことができることは、自己観察の能力があることを示す。ドッペルゲンガーの観念に新しい内容を持ち込み、特に自己批判の観点により、克服された古いナルシシズムに属していると見えるものの一切を、この表象に割り振る。

しかし、ドッペルゲンガーの観念にあらわれるのは、この批判的な自我にとって不快な内容だけではない。実現されなかったが空想が依然として固執したがっている運命形成の可能性、外的な不都合のせいで実現できなかった自我の欲求、あらゆる抑圧された意志決定も、ドッペルゲンガーの観念にあらわれる。

しかし、以上の考察では、ドッペルゲンガーを何かよそよそしいものとして自我の外部に投影しようとする防衛の説明になっていない。ドッペルゲンガーに不気味さという性格が備わることから考えると、これが心的な原始時代に形成された像であり、それが生まれた当時は、極めて親しいものという意味を持っていたが、この像はやがて克服されていったとしか思えない。信仰が失われると、神々が悪魔になった様に、ドッペルゲンガーが恐ろしいイメージになったのだ。

ホフマンの小説をドッペルゲンガーのモチーフで解釈:自我感情の発達史の中の個々の段階への逆戻り、自我が外界やその他の自我と明確に区別されていなかった時代への退行である。これらの(自我障害の)モチーフが、不気味なものという印象を生み出す上で寄与している。

実例(3) 反復と不気味なもの

意図しない反復、繰り返し同じ番号(62という番号札、部屋番号、番地)という事態に不気味さを感じるが、それは反復強迫のあらわれであり、魔力的な性格を帯びさせる。

実例(4) 不幸な予感の的中

強迫神経症患者の鼠男が腹を立てた老人に対して「卒中にでもなればいい」と不満をこぼしたところ、2週間後本当に老人が卒中の発作に襲われたとき、その患者にとってこれは「不気味な」体験だった。

これらは思考の万能という原理に関係する

アニミズムの特徴:世界を人間の霊魂で満たすこと、自らの心の過程をナルシス的に過大評価すること、思考の万能を信じること、これに基づいて呪術の技術を利用すること、魔法の力を等級づけ、他の人間や事物に割り当てること、その発達段階にあたる無制限のナルシシズムが現実から見誤りようのない抗議から身を守るために様々なものを創り出すこと。

われわれは皆、個人の発達過程で、原始人のアニミズムに対応する段階を経てきた。この段階がわたしたちの中に様々な痕跡を残しており、時にふれて必ず外に現れる。今日「不気味」と感じる全てのものは、アニミズム的な心の活動の痕跡にかかわり、これを表現する刺激になる条件を満たす。

b.この論文の本質的内容2点

  1. 精神分析では、感情の動きに伴う全ての情動は、抑圧により不安に代わる。この不安なものの中には、抑圧されたものの回帰というグループがある。この種の不安なものが不気味なものである。
  2. 不気味なものとは新しいものでも疎遠なものでもなく、心の生活には古くから馴染みのものであり、それが抑圧プロセスにより疎遠なものになっていた。すなわち、不気味なものとは、隠されているべきものが外に現れたものである。

⇒ 残された課題:この洞察が、不気味なものの他の事例でも有効かどうか。

例1 不気味なものと死者、癇癪や狂気にまつわる不気味さ

死んだ人間の魂が霊魂として見えるとは、公式的には信じていない。死者に対する感情的な姿勢は、本来は両価的なものだったのに、心の生活の高次の層では、(宗教によって)敬虔さという一義的な姿勢に弱められている。また、死者への不安が私達のうちにまだ強く存在していて、きっかけさえあれば、外に出てこようとする。癇癪や狂気にまつわる不気味さも同様のところから生まれる。

例2 切り取られた四肢、切り落とされた頭、勝手に踊りだす足

既に説明したように、こうした不安は去勢コンプレックスに触れるものがある。

例3 仮死状態のまま埋葬されるという表象

不気味さの極致。しかし、この恐ろしい空想は、母胎の中でくらしていた頃についての空想であり、本来は全く恐ろしいものではなく、快感を伴う空想であった。

一般的な論点についての補足 不気味な印象をもたらす場合

  • 空想と現実との間の境界線がぼやけてしまうような場合
  • 空想上の事に過ぎないとみなされていた出来事が現実に出現してきた場合
  • ある象徴が象徴されているものの働きと意味を完全に引き受け代行するような場合

幼児的な心性(神経症患者の精神生活を支配している心性)を含み、物的現実に比べて心的現実を過剰に強調する。思考の万能にも繋がる特徴である。

例4 呪術的なトリックにつきまとう不気味さ

この場合も同様に、そこに幼児的な心性を含み、心的現実を過剰に強調する。思考の万能にも繋がる。

実例収集の最後に、精神分析の仕事から得られた経験を取り上げる

神経症の男性が、女性性器の不気味さを語ることは多い。→かつてそこにいたことのある場所。
夢の中で「ここは知っている所だ、かつてここで暮らしていた」と感じる場所や風景→女性の性器や母胎。

不気味さ(unheimlich)はかつて慣れ親しんだ(heimlich)ものである。前綴のunは抑圧の目印である。

(3)第三節

不気味なもの:慣れ親しんだものが抑圧された後に回帰してきたもの。逆もまた真なりが成立しない件。

これまでの条件とは別の条件があるのではないか。→ 美学的な研究の必要性へ(虚構、創作)

【体験される不気味なもの】

  • ある印象により抑圧された幼児期コンプレックスがよみがえった時。心的現実性のみが問題となる。
  • (もはや正しくないものとして)克服された原始的な(アニミズム的な)確信が(ある出来事によりその正しさが)改めて確証されたようにみえた時。ここでは現実吟味、物的現実性が問題となる。

この二種類の不気味さの経験が、つねに明確に区別できるものではない。原始的な確信は、もっとも奥深いところでは幼児期コンプレックスと結びついている。

【空想、創作の不気味なもの】

実際に起こると不気味であろう多くの事が、空想・創作では不気味にならない。人生には存在しない不気味な効果をあげる多くの可能性が、空想・創作の中に存在する。

(4)感想など

非常に難しくまとめるのが大変だった。不気味なものの特性を明らかにすることは、精神病的不安の発生について明らかにすることに繋がると思われる。特にドッペルゲンガーの話では、分裂や投影について説明しているのか…?

(5)議論したいこと

精神病的不安をもたらす条件について、この論文から読み取れる事を、皆さんと話し合いたいです。

2.不気味なもの(1919)の解説

(1)はじめに

おそらく1913年頃に書かれた論文であるが、数年以上の間、引き出しにしまわれていたようであった。その理由は不明である。そして、反復強迫のくだりの箇所は出版直前に加筆されたようである。

ストレイチーは解説で、最初のドイツ語辞書からの引用が非常に長く、かつ翻訳が困難であったと愚痴をこぼし、読者にはこの箇所で挫折せずに、後半も読んでもらいたいと希望を述べている。

(2)要約とポイント

不気味なものは、実は馴染みのものであり、長らく抑圧されて疎遠になっていただけである。そして、それが現前に現れると不気味になる。これらのことを国語的な観点とホフマンの作品である「砂男」から例証している。

(3)観念の模倣

観念の模倣とは、考えていることを身振り手振り、行動で表現することである。人間が何かを伝達し描写する時、言葉でそのことを聞き手に明らかにするだけではなく、さらにその内容を自分の表現形式で模倣することはよく観察される。

例えば「高い山」と言う時には、頭の上に手を上げ、「小さい猫」と言う時には、話し手は身体を小さくするという具合である。それによって、表出内容の大小を表現する時に身振りの表示と言葉の表示が一致し、どちらにおいても量や強度が指し示される。そして、表現形式で表出されるのは感情ではなく、実際に表象されているものの内容であると考えられる(北山 2008)。

マホーニィ(1987/1996)は本論文では、書き方そのものが不気味になっていると指摘している。考察している内容が、その書き方に表れていることから、これらも観念の模倣としている。

(4)エディプスコンプレックスと去勢不安

フロイトは砂男が目をついばむことをエディプスコンプレックスや去勢不安として指摘している。エディプスコンプレックスについては「トーテムとタブー(1913)」の講義の時に詳しく解説したが、今一度、再掲しておく。

「同性の親を排除し、異性の親との結びつきを求める心性であり、人間の根幹をなすもので、主に3~5歳頃に出現する。フロイトによると男児と女児のエディプスコンプレックスの発達は多少違っている。まず、男児は当初は母親に愛を向けているが、そこに父親の妨害と圧力を受け、母への愛を断念する。そして強い父親への同一化をすることで性心理発達を遂げる。女児は母親に愛を向けているが、母にはペニスがないことに気づく。本来はペニスを持っていたのに関わらず、去勢されたのだと思うようになる。そして、ペニスを持っている父親に愛を向けるようになり、そのまま性心理発達を遂げる。ちなみに、異性の親を排除し、同性の親に愛を向けることを陰性エディプス・逆エディプスという。」

上記の引用は以下の「トーテムとタブー(1913)」に掲載されています。

エディプスコンプレックスは性愛の矛先についての理論ではあるが、同時に子どもが、大人・親の謎に興味を持ち、解き明かし、知りたいという知識欲求の側面もある。しかし、それは非常に困難な過程である。大人・親からの禁止と制止、誤魔化しがあるからだ。そうしたことが子どもの心に不安を惹起させることもあるだろう。

その不安には大まかには2つの水準のものがある。1つは去勢不安という、いわゆる神経症水準のものである。もう1つは迫害不安であり、精神病水準のものである。前者はプライドや自尊心、自信に直結しているが、後者は攻撃され、貶められ、バラバラにされ、存在そのものが抹殺される強い恐怖を体験するものである。そうした不安により、無知でいることを強要され、思考は制止し、発達は停滞してしまう。

(5)不安と抑圧の関係

フロイトは「不安神経症という特定症状群を神経衰弱から分離する理由について(1895)」において、不安を以下の3つに分類した。

  • 浮動性不安(予期不安)
  • 特定の対象や状況に結びついている不安(恐怖症)
  • 身体症状としてあらわれる不安発作

この初期の時期には、こうした不安は抑圧によって思考内容を意識から追いやるが、残された情動が症状を形成し、それが不安になってあらわれるとした。いいかえると、現実の外的な原因によってリビドーが鬱積して生じるということであり、そのため、鬱積不安学説と呼ばれることもあった。この学説はエネルギー経済論とセットとなっている。本論文ではこの理論学説から理解された不安として扱われている。

しかし、後期になり、フロイトは「制止、症状、不安(1926)」において、不安理論の全面的な改訂を行った。鬱積不安学説では抑圧が先にあり、その結果として不安があるとしたが、それを逆転させた。つまり、不安が先で、その結果抑圧が働くということである。そうした理論の逆転があったのは構造論の視点が追加されたことが主な理由である。

もう少し詳しく説明すると、自我が、エスや超自我、外界から圧迫を受け、そのために生じた破局的体験を危険と認識する。その危険の認識が不安なのである。不安が生じるとその苦痛に耐えきれず、抑圧を主とした防衛機制を発動するのである。これらのことから、不安信号説と呼ばれている。

フロイトの「制止、症状、不安(1926)」についての要約と解説は以下のページにあります。

そして、防衛機制の種類により、不安や神経症のあらわれが変わってくるのである。例えば、転換ヒステリー、強迫神経症、恐怖症などである。さらにフロイトは不安を以下の4つに分類した。

  • 分離不安
  • 愛を失う不安
  • 去勢不安
  • 道徳的不安もしくは超自我不安

フロイト以後の精神分析家は、上記の4分類以外にも不安のいくつかの種類を提示した。例えば、以下のようなものである。

  • 一人ぼっちにされた時の無力感(K.ホーナイ)
  • 母親との間で体験するはずの共感されることを拒絶された体験に源泉(H.S.サリヴァン)
  • 迫害不安と抑うつ不安(M.クライン)
  • 分離独立を妨げる侵害によって生じる精神病的不安(D.W.ウィコット)

(6)自我の分裂

自我の二重化、自我の分割、自我の交換としてドッペルゲンガーのモチーフを本論文では取り扱っている。これらは、「集団心理学と自我分析(1921)」「自我とエス(1923)」で明確になってくる超自我の理論の先駆けとしてみることもできる。

人間は全体でまとまりをもった一つの機能として統一されているのではない。様々な心の在り方がある。時にはそれらは相容れないような矛盾をしている時もあり、矛盾していることが同居しているのである。だからこそ、葛藤や迷いが生じるのだろう。そして、その葛藤の苦しみがあまりにも大きい時には、スプリットと投影同一化を用いて外界に排出され、外から攻撃されているものとして認識してしまうこともある。こうしたことは実は全て自身の心の内の世界の出来事であると再取り入れしていく過程がセラピーであるとも言える。

後年、フロイトは「フェティシズム(1927)」や「防衛過程における自我の分裂(1940)」で徐々に理論化していったが、最終的な帰結をまとめることはできなかった。

その後、こうしたことを臨床的に観測し、精神分析的に扱っていったのがメラニー・クラインである。「分裂的機制についての覚書(1946)」で、抑うつポジションに先立つポジションとして、妄想分裂ポジションを定式化し、分裂をはじめとした原初的な防衛機制を明確にした。

(7)反復強迫

本論文では同じような事態が繰り返されることが不気味なものという感情の源泉になっている、と指摘している。それらを反復強迫と呼んでいる。

反復強迫は死の欲動の一つの表れであり、ある種の行動パターンを強迫的に繰り返すことを言う。それらの繰り返す行動はほとんどが苦痛を伴う体験や人間関係であるが、そうしたことを自身が選択的に繰り返しているという意図や自覚を持つことは稀である。そのため、こうした苦痛が繰り返されるのは運命のせいであると嘆くことが多いことから、運命神経症と言われたりする場合もある。

これらの反復強迫を性の欲動から説明することは非常に困難であり、フロイトはここで死の欲動の概念を持ち出してきている。ちなみに俗語的に「タナトス」という語を充てられることもあるが、フロイトは論文中で一度もこの語を使用したことはないようである。

死の欲動の究極にして最終目標が死、もしくは無機的な状態に戻ることである。

さらに、メラニー・クラインは死の欲動を攻撃欲動・破壊衝動として捉えなおした。フロイトの理解よりも破壊的で、攻撃的で、非常に活発に活動しており、激しい怒りや憎しみといった情動も含まれている。そうした死の欲動の最初の表れは、過酷な超自我と呼ばれるもので、過度に自身に抑制を課すものとして描かれた。さらには、死の欲動が純粋にあらわれるのは羨望であるとした。羨望とは良いものを攻撃することであり、そこに原初的な攻撃性を見ることができる。

クラインの羨望の理論は以下をご参考にしてください。

しかしながら、反復強迫は単に死に向かう絶望にまみれた行動であるといえるかどうか分からない側面もある。確かに、過去の傷ついた体験を繰り返すことで同様の傷つきをしてしまうこともある。しかし、その反面、過去の失ったものを取り戻すため、何度もその時点に立ち戻り、次こそは違った展開になるように苦心し、傷つきを癒そうとする希望でもあると読み解くことができる。

そして、そうした希望を読み取ることのほうが臨床的であるようにも考えられる。だとすると、反復強迫は死の欲動の文脈からの理解だけでは不十分になってしまうだろう。

(8)精神分析と芸術、美学

フロイトは本論文と同様に、数多くの文学作品、芸術作品を素材として取り上げてきた。フロイトが芸術家や文学者に対してライバル心を持ち、嫉妬や羨望を向けていたという指摘はいくつかある。フロイト(1914)は

「私には合理主義的な、もしくは精神分析的な素質があって、そのせいか、自分が感動していながら、しかも他面その感動の理由が分からないままでいるということが我慢がならない」

と述べている。科学と芸術は、両方とも人間の本質や根本に迫っていくための方法なのだろう。ただ、その方向性は全く反対になっているだけなのである。用いる手法が合理性と直感の違いなのだろう。

さて、本論文では不気味なものは美とは正反対のものとフロイトは言っているが、それはそもそも本当のことだろうか。不気味なものDas Unheimlicheを「神秘的なもの」と訳されてもいるようだ。

フロイトは、芸術について無意識的な願望を満たす空想の世界を創造することとしている。と同時に、フロイトも本当のところは分からないとも付け加えている。

フロイト以後、美というものをどのように理解しているのかを概説する。クライン派のH.シーガルは

「深みでの創造的行為は、調和的内的世界の無意識の記憶と、その世界の破壊の経験つまり抑うつポジションに関係がある。その衝動は失われた世界を回復させ、再創造しようとするところにある」

としている。それは言い換えると償い(reparation)であるともいえるだろう。しかし、そうした創造は苦痛を孕んでおり、創造する必要性は強制的でもある。そして、たやすくその営みを放棄することはできず、放棄や失敗は破滅として感じられるほどのものになってしまう。芸術家は深い葛藤を体験し、そのための表現を見出し、夢を現実へと翻訳する特別な能力を有している。

そうした中で創造された作品は、芸術家から世界にむけられた贈り物といえるだろう。それは芸術家が死んだ後も残り続ける贈り物なのだ。こうしたシーガルからみる芸術というのは、象徴作用を通した償いといえる。

一方で、D.メルツァーは人生の最初から愛情に満ちた母親の存在、すなわち、外的な美の衝撃(特に、授乳場面での母親の乳房、顔、目)は乳児の審美的感覚を刺激する、と言っている。母親の気分や声の調子や表情は神秘的に変化することで、不確かさを引き起こし、本能や創造的な想像性を刺激する。しかし、それらは非常に衝撃的であり、母親の美に耐えられず、乳児は抑うつを体験する。こうした審美的葛藤が人間の最早期の困難として立ち現れるのである。分裂や投影同一化は審美的葛藤を避けるために後に生じてくるのである。

こうした審美的葛藤は美の崇高なものと倒錯的で悪性のものの双方を含んでいるのだろう。そして、同時に、この審美的葛藤や体験が芸術家のインスピレーションを産みだす源泉となるのである。

またメルツァーは精神分析は芸術であるとも言っている。

3.さいごに

このような精神分析について関心のある方は以下のページを参照してください。

4.文献