陰性治療反応の分析への寄与
ジョアン・リビエールが1936年に執筆した「陰性治療反応の分析への寄与」という論文についての解説。フロイトの陰性治療反応の概念をさらに発展させ、躁的防衛システムやパーソナリティ構造、自己愛との関連について定式化した。
目次
1.陰性治療反応の分析への寄与(1936)の解説
図1 ジョアン・リビエールの写真
(1)リビエールの生涯
1883年6月28日にイギリスのイーストサセックス州のブライトン(イギリス南東部に位置し、現在は海浜リゾート地となっている)で出生。4人兄弟の長女。母親は厳しい性格の人であったとのこと。23歳で結婚。26歳で父親が亡くなった時に精神的な危機に陥り、32歳でジョーンズの精神分析を受け始めた。しかし、ジョーンズに対して強い恋愛転移を起こし、またジョーンズも枠組みを守れないという事態となり、精神分析は膠着状態となったようである。
そのため、39歳の時にフロイトから精神分析を受けることとなった。その際にフロイトから国際精神分析誌の翻訳編集の仕事を依頼された。イギリスに帰国後は、当時渡英してきたメラニー・クラインと親交を結び始めるようになり、クライン派の一角となっていった。彼女はウィニコット、アイザックス、ボウルヴィの訓練分析を、シーガル、ローゼンフェルド、レイらのスーパービジョンをおこなった。1962年、79歳で死去。
(2)フロイトの陰性治療反応についての見解
- 「ある幼児期神経症の病歴より(1918)」で陰性反応と初めて表現。意味が明らかになるたびに症状が増悪することを指し示した。
- 「自我とエス(1923)」にて、超自我との関連で陰性治療反応を定式化した。死の欲動に由来する厳しい超自我からの懲罰であり、無意識的な罪悪感によって、改善することや良くなることを妨げることを意味していた。
(3)リビエールの陰性治療反応についての見解
- 抑うつポジションにおける苦痛に耐えることができず、躁的防衛によって事態を対処しようとすることを陰性治療反応とした。
- 躁的防衛はシステムとして独立した機能をもち、それらはパーソナリティ構造となっていることを見出した。
(4)羨望との関連
- リビエールの陰性治療反応の見解と、羨望の概念が追加したのがメラニー・クラインである。
- 羨望は良いものを破壊する衝動。
- 精神分析家や精神分析家との間で創造されるものを羨望は破壊しようとする。
- ひいては自己をも破壊しようとする。
(5)パーソナリティ構造論
S,フロイトは「自我とエス(1923)」の中で死の本能との関連で、陰性治療反応について論じた。これは症状が軽快しようとすると無意識的罪悪感が刺激され、反対に悪化してしまう事態を説明するために導入された。S,フロイトは超自我との関連で論じ、クラインは羨望との関連で論じた(1957)。J,リビエールは「陰性治療反応への寄与(1936)」において、パーソナリティの中にある構造化された躁的防衛システムとの関連で論じた。
これらを踏まえ、H,ローゼンフェルトらが、羨望の影響下において、ナルシシズムを中心として、様々な苦痛から防衛するために、高度に構造化された自己愛的な構造体を構成し、その中に逃避する様を論じた。破壊的ナルシシズムという。
これは破壊性や攻撃性が理想化され、健康な自我の部分を脅迫し、コントロールし、支配する。普段は目立たないが、人格そのものをのっとり、裏から支配している。現状維持が目論まれ、変化することや成長することが危険なことであると認識し、そのような事態になりかけると陰性治療反応が発動し、もとの状態に戻してしまうのである。
このような自己愛構造体が維持されている限り、抑うつ的な苦痛を乗り越え、抑うつポジションを達成することを妨げられてしまう。同時に、妄想分裂ポジションからの不安からも防衛することができ、一種、嗜癖的にその状態に沈殿し、倒錯的な満足を得ようとする。
J,シュタイナーは自己愛構造体の概念を整理し、妄想分裂ポジションと抑うつポジションに対する防衛的側面を強調した。そして両ポジションの間に第3のポジションとして、病理的組織化を置いた。これら3つのポジションの変化を好まない平衡状態を維持することが目的となっている。
以下のページの「ナルシシズムの導入にむけて」の講義レジュメから抜粋
2.おわりに
このような精神分析についてもっと学びたいという方は以下をご参照ください。
3.文献
この記事は以下の文献を参考にして執筆いたしました。
小此木啓吾 監修(2002)精神分析事典. 岩崎学術出版社.