想起すること、反復すること、ワークスルーすること
フロイトが1914年に書いた技法論文である「想起すること、反復すること、ワークスルーすること」についての要約と解説です。人は過去のことを想起する時、言葉で語るのではなく、行動で示すということを論じています。
A.想起すること、反復すること、ワークスルーすること(1914)の要約
図1 ジークムント・フロイトの写真
1.概要
本論文は、フロイト58歳時、狼男の精神分析が完了した後に執筆された。1892年から催眠浄化法、前額法を経て1896年に自由連想法が確立され精神分析療法という名称が用いられるようになった。その後の臨床経験を踏まえて、本論文においてそのエッセンスとなることをいくつかのキーワードを用いつつ記述している。
2.自由連想法
思い浮かべたことの中から、何を連想できないかを推定し、解釈の仕事によってその解釈の結果を患者に話して聞かせることによって抵抗を回避しようとする。被分析者は、(精神分析療法の基本規則を遵守して)思い浮かんだことに対して加える批判・選択を克服しなければならない。
そして「ついに首尾一貫した今日の技法が形づくられた。すなわち精神分析家は、一定の契機、あるいは問題に焦点を合わせることを放棄し、被分析者のその時、その時の心の表面を詳しく吟味することで満足する。そして解釈の技術は、中核的には、このように出現してくるさまざまな抵抗を認識して、それを患者たちに気づかせるために用いる」
*心の表面を詳しく吟味する、ことの指摘。それは自由連想法だけで可能か?
*「精神分析の観察の材料は、他の学問では取るに足りないものとして捨てて顧みられないようなこと、いわば現象界の屑のようなものから成り立っているのです」(参考:『精神分析入門』)
3.遮蔽想起
フロイトは、そう大した意味があるとも思えないが、細部にわたって特別な鮮明さをもってしばしば想起される幼児期の記憶に注目した。これは、子どもの心理活動が十分に発育していないからだとはフロイトは考えなかった。
その頃の記憶が想起され得ないのは、ヒステリー患者が病因についての記憶を想起できないのと同様、重要な出来事に対する健忘が働いているのだとフロイトは仮定した。
4.事後性
フロイトは、この概念によって主体の生活史に関する精神分析的思考をもっぱら過去から現在への影響のみに注目する直接的決定論に還元するという誤解を否定している。
1896年フリースへの手紙にて「記憶痕跡の形をとって存在する素材は、新たなもろもろの条件によって、折にふれて再体制化され、書き換えを受ける」とある。モデルによれば、精神分析の目的は、この書き換えられていなかった記憶の書き換え、意味の広がりを結果する事後性の営みであるとされる。
5.想起と行為と反復
「被分析者は、忘れられて抑圧されたものについては、一体に何も思い出すerinnern(思い起こす)わけではなく、むしろそれを行為にあらわすagieren(原義は、演じる)のである」「彼はそれを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する。
彼はもちろん、自分がそれを反復していることを知らずに(行動的に)反復しwiederholen(繰り返し)ているのである。ある男性被分析者は、両親の権威に対して反抗的で不信を抱いていたことを思い出したとは物語らず、精神分析家に対して、そのように振舞うのである」
6.反復強迫
上記のように、患者は幼児期に体験した神経症的な人間関係を、想起して言語化する代わりに、精神分析家との関係において、行動として反復する。しかし「単に精神分析家に対してだけのみとどまらず、現在の状況における他のすべての領域に対しても転移するのだ」「例えば、彼が精神分析中にある恋愛対象を選ぶとか、ある仕事を引き受けるとか、ある企てに参画するとか」「抵抗が大であればあるほど記憶の想起は著しく行為(反復)によって代理される」
*転移の重要性。ただどんな関係にも転移は起こっているのか?
7.被分析者は何を反復するのか
「抑圧せられたものという源泉から発して被分析者のあきらかに見て取れる人柄(manifest personality ストレイチーによる英訳)の中にすでに浸透しているもののすべて―制止(諸機能の低下や遅延)や、役に立たない様々な態度や病的な性格特徴を被分析者は繰り返す」(下坂訳)
*自由連想開始の頃にしばしば見られるAgierenが実はすでに人格の中にゆきわたっていたとの指摘。フロイトの診察室を訪れる以前に行動化に傾くmanifest personalityがこの時代にも存在したということ。(下坂)
8.治療期間中の悪化
「精神分析操作によって反復を行わせることは、現実生活の一部分をも喚起・動員することであり、したがってあらゆる場合に無害で、安全であるということはできない。精神分析中の悪化はしばしば避けられない」「患者は自分の病気に現れた様々の現象に、注意をおこたらない勇気を持たなければならない。病気それ自体が彼にとって、もはや軽蔑すべきものであってはならない。
むしろ、病気は彼にとって意味深い偉大な敵となり、彼の今後の人生が有意義なものになるかならないかを決するような、正しい動機にもとづいた最も大切なものの一部にならなければならない」
*症状には価値があり、人格の大切な一片のあらわれでもあるという視点は肝に銘じたい。
9.病気であることを許されたという事実の濫用
治療においては、患者に対して病気であることへの自覚を要請する。しかし若年者の場合に、症状に対する耽溺をもたらしてしまうことがある。また、精神分析の進展につれて、これまではより深い処にあった、新しい欲動興奮が繰り返される場合がある。
さらに精神分析中の感情転移の外でなされる患者たちの行動は、一過性の生活の支障を引きおこす場合があるが、それらは手に入れるべき健康を持続的に駄目にしてしまうことすらある。
*自由連想法の副作用と、統合失調症を入念に除外しなければならないことをフロイトは説いた。(下坂)
10.これらへの術策として
「精神分析家は、患者が運動的な領域に向けようとする衝動を、精神的な領域の方に引きとどめるために、患者と不断の闘争態勢をとり、かくして患者が行動として発現させようとしているものを、記憶を想起するという操作によって解決することに成功すれば、われわれはそれを精神分析治療の勝利として祝うわけである。」
「患者を守ってやるためには、精神分析の継続中は生活上の重要な決定を下さないこと、たとえば職業を決定しないこと、決定的な愛情対象を選び出さないこと、むしろ、これら一切の意図の実現は治癒の時まで待つという義務を負わせることがもっとも良いのである」
*精神分析的な心理療法における、意味の探求と行動の抑制への目配り。
*言語化することの重要性とその意義の再確認。
11.転移の操作
「患者の行う反復強迫を制御し、思い起こしに対する一つの動因に造り変える主要な手段は、転移の操作Handhabungの中に在る。われわれは、反復強迫の当然さを容認し、一定の領域内で自由にさせることによって、これを無害のものとし、それどころか役に立つものとする。
われわれは反復強迫に対して、遊び場Tummelplatz(playground、ストレイチーによる英訳)としての転移も開放する。この場では反復強迫は、ほとんど完全に自由に展開することが許され、被分析者の心的生活の中で隠されていた病因的な衝動にまつわるすべてのことをわれわれの前で演じることが義務とされる」
「われわれは必ず、病気の一切の症状に対して、転移性の現象という新しい意味を与え、通常の神経症を転移神経症に置き換える操作に成功しうる」
「このようにして転移は、病気と健康な生活とのあいだの中間領域を作り出す」
*Tummelplatz子どものための遊び場、中間領域というフロイトの着想にただただ驚くばかり。劇としての面接と記述した土居の視点を思い出す。
12.抵抗の克服
「精神分析家が被分析者の全然知らないでいる抵抗を発見してそれを話してきかせるということから開始すべきである」が、初心者は何一つ変化が起きない、ますます抵抗が強くなった、見通しがつかなくなったとしばしば訴える。「しかしこのような悲観的な観測は常に誤りである。」
「われわれは、患者に時をゆだねなければならない。その時間の中で患者は抵抗の存在にもかかわらず、精神分析の基本原則のもとで、精神分析という仕事を続けていくことによって、それまでは未知のままに気づかれなかった抵抗に沈潜(集中)し、抵抗に一貫して取り組みDurcharbiten、ついには抵抗を克服する」(下坂による意訳、小此木訳は誤訳)
精神分析家は「精神分析の経過を流れるに任せておくこと以外には何もしてはならない。」
*「問題の解決が精神分析を受ける者自身の手に委ねられるという点に精神分析の特殊な技法がある」(参考:『精神分析入門』)
*「初心者には精神分析がはかどらないように見えても、患者の心の中では実は、Durcharbitenという自己分析が営まれている」(下坂)この視点を忘れてはならないと考える。
13.疑問点
- 転移の操作―実際どう操作されるのか。
- カウチを使っての自由連想法での治療と、対面での精神分析的精神療法の治療とで、転移のあり様や取扱いに違いはあるのか。そもそもなぜカウチなのか。
14.論議したいこと
- 患者(クライエント)にいかに一貫して取り組ませるか、治療者の姿勢・工夫の仕方を論議したい。
- 悪化への対応はどうなされているか。
B.想起すること、反復すること、ワークスルーすること(1914)の解説
1.無意識の意識化を超えて
精神分析は、催眠療法の影響を多大に受けている。無意識下に抑圧された葛藤やコンプレックスを意識化することにより症状が消失する、という楽天的な考え方である。催眠を放棄したことは、それが実は不可能なことであったからである。もしくは意識化するだけでは改善しないという結論である。そうした経緯の中でフロイトは精神分析を創始した。
しかし、ドラ症例の時期には、初期・古典的な精神分析で、無意識の意識化を目指したが、それでもうまくいかなかった。そうした精神分析の困難にぶつかったとき、フロイトは新たなアイデアを練りだし、精神分析を一歩前に進めることができていた。その局面の一つがこの本論文である。
2.ポイント
本論文で重要な個所は以下の2点である。
- 「患者は忘れられ抑圧されたことを何も想起せず、それを行動化する、と言って良い。彼は記憶としてではなく、行為としてそれを再生する。反復しているとは知らずに」
- 「抵抗に逆らって精神分析の基本原則にしたがって精神分析的仕事を続けることによって、今や知ることになった抵抗と親交を深め、それをワークスルーし、それを克服するための時間を患者に与えなければならない。抵抗が最も高まったときにようやく、精神分析家は患者と協働して抵抗を養っている抑圧された欲動衝動を発見することが可能になる。そして、この体験こそが、患者にそのような衝動の存在と力を納得させるのである。精神分析家には、ものごとの成り行きが進むのを待ち、そのままにするほかにできることは何もない。その成り行きを避けることはできないし、かならず促進することができるわけではない」
3.解釈すれども変化なし
フロイトが述べているように、患者は言葉で表現するのではなく、行為で何度も繰り返し、そして、同じような失敗のループに埋もれて行ってしまう。精神分析家として傍からみていると明瞭である。精神分析家だけではなく、身近な家族や友人からも一目瞭然である。そして、往々にして、家族や友人もそれらを指摘するが改善はない。だからこそ、精神分析的な精神医療や心理療法にたどり着いてくるのだが。
さて、では、精神分析的心理療法に入り、ほとんどの精神分析家はそれらを指摘し、時には解釈をするだろう。それによって、何らかの気付きが得られ、行動が変化することもあれば、やはり変化しないこともある。実際には後者の方が圧倒的に多いだろう。せいぜい、患者は知的に理解を示し、「なるほど、そうか」というが、それによって劇的な変化はあることはめったにないことは周知のごとくである。
では、なぜ指摘や解釈が患者の気付きや行動変容に直結しないのだろうか。それに対する回答を巡っての議論が、今日の精神分析や心理療法の発展と展開に寄与している。フロイトの本論文もそれに対する回答の一部である。その後の理論や考え、実践の一部を以下で提示する。
4.中間領域、病理の舞台から創造性
フロイトは「転移は病気と現実生活のあいだの中間領域を創造し、そこを通じてその両者は互いに移行し合うのである」としている。まさにウィニコットが言いそうなことである。
図2 ドナルド・ウィニコットの写真
ウィニコットは、中間領域、可能性空間、移行現象という言葉で論じた。私であると同時にあなたでもあるという、この特殊な領域は、創造性の源泉となる。ストレイチー(1934)は転移解釈こそが変容惹起解釈であるとした。
ストレイチーの変容惹起解釈については以下に詳しく書いています。
しかし、ウィニコットは解釈の絶対性に疑問を呈している。特に重篤な病理をもつ患者にはホールディングを通して、乳幼児的な部分を扱うことこそが、精神分析を前進させるとした。さらに、中間領域という概念は用いていないが、バリント(1952)は新規蒔き直しという概念を提唱した。それは患者が深い退行をし、そこからの進展することにより、治療的な効果を得るというものである。
5.コンテイナー・コンテインド
図3 ウィルフレッド・ビオンの写真
ビオン(1970)は精神分析家と被分析者の関係を母子関係でとらえた。そして、被分析者が織りなす反復はコンテインドであり、それをコンテイナーである精神分析家がコンテイニングすることにより、ワークスルーは促進される。つまり、確かにワークスルーは精神分析家の仕事ではなく、被分析者の仕事ではあるが、そうしたことをコンテイニングし、促進することは精神分析家の仕事である。
患者から投げ込まれたβ要素を、精神分析家はα機能を通して、無毒化する。そして、患者が受け入れられる形にして、精神分析家は患者にもう一度投げ返すのである。
これを乳児-母親関係からとらえなおすと、考えられない考えが乳児の心に侵入し、乳児は泣き叫ぶ以外のことは何もできない。母親は泣いている乳児に適切な言葉を投げかける。「おー、よしよし、お腹が空いたのね」など。それが繰り返されることにより、乳児は考えられない考えは実は空腹だったのかと知るようになる。これが心の成長となる。
ビオンについては以下のページが参考になります。
6.真実を知ること、抑うつを引き受けること
「無意識の意識化」という言葉には希望は含まれていても、そこに哀しみが見いだせない。意識化することはとても哀しいことである。喪失と言っても良い。なぜなら真実に向かい合わねばならず、虚構ではあるが万能的で苦痛を否認した世界を放棄することにならざるをえないからである。
万能的な世界を放棄することには少なからず痛手が生じ、哀しみが生じる。反対から言うと、そうした痛手と哀しみを受け入れられないからこそ、過去の反復にしがみつき、自身を誤魔化し、万能的な世界に逃げ込もうとするのだろう。それらが抵抗であり、防衛であり、陰性治療反応である。
すなわち、真実を知ることは大切であるが、そこにまつわる抑うつ的な苦痛を抱えられるようにならないことには先に進むことができない。
福井(2008)は以下のように指摘している。フロイトは抑うつを問題視しなかったことを挙げ、その理由として母親との関係は安定しており、当初から一人でいることが達成できていたからであるとした。フロイトは「快感原則の彼岸(1920)」や「終わりある分析と終わりなき分析(1937)」など、さらに後になってから、希望や期待だけではなく、哀しみをようやく取り入れることができるようになっていった。
7.治療関係を超えたところから
精神分析家と患者の関係の織りなしが精神分析を進展させるという二者心理学的な視点は、対象関係論が精神分析の重要な位置を占めるようになってから常に理論的枠組みに入れ込まれている。
それらがさらに発展し、メルツァー(1967)は精神分析的な設定を維持し、精神分析というプロセスにのると、ワークスルーは自然史の中で展開するとした。それと似たような理論に、オグデン(1994)の分析的第三主体がある。精神分析的な設定を維持し、精神分析を進めていくと、精神分析家の主体と患者の主体の間に第三の主体が立ち現れる。それらとの弁証法的な取り組みが精神分析を一歩進めるとしている。
8.行き詰まり
ワークスルーは時として停滞する。というよりも、精神分析の進展は停滞を常に孕んでおり、螺旋状に進むことが通常である。何をもって行き詰まりとするのか、という客観的な指標はないが、精神分析家の心の中で進めなさが浮かぶ時には、行き詰まりかそれに近い状況ではあるのかもしれない。
行き詰まりに作用していることは様々な要因がある。患者要因でいえば、羨望、陰性治療反応が代表的であろう。精神分析家要因でいえば、逆転移の影響が挙げられる。そして、行き詰まりの打開するために必要なこととして、よく言われることは、スーパービジョンやコンサルテーションを受けること。さらには個人分析を受けることがある。
スーパービジョンについては以下に詳細に解説しています。
その上で、行き詰まりの扱いとして主には2つの方向性がある。1つは、行き詰まりこそ病理の表れであるし、中心であると言ってよい。行き詰まりを形成させる何かが患者の人生を立ち行かなくさせているからこそ、精神分析の設定を維持し、解釈で扱っていくことが必要である、という考えである。
もう1つは、精神分析的な設定と精神分析的な介入の中で行き詰まりが出てきているということは、精神分析的な設定と介入で打開できるものではない。だからこそ、パラメータ、マネージメントといった、非精神分析的な介入をすることが求められるという考えである。
そのどちらが正しく、有用なのかについて、絶対的な基準があるわけではない。自身の臨床観、治療観を鑑みて、自身の在り方、立ち方、行い方を内省することが必要なのであろう。
C.さいごに
こうした深みのある精神分析について興味のある方は以下のページを参照してください。
D.引用文献
この記事は以下の文献を参考にして執筆いたしました。
- D.メルツァー(1967) 松木邦裕 監訳「精神分析過程」金剛出版 2010年
- D.W.ウィニコット(1951)「移行対象と移行現象」橋本雅雄 大矢泰士 訳 「遊ぶことと現実」 岩崎学術出版社 1979年
- 福井敏(2008)「『想起、反復、徹底操作』を読む-すべてを知り、一人で闘ったフロイト」 西園昌久 監修「現代フロイト読本1」みすず書房 2008年
- J.ストレイチー(1934)「精神分析の治療作用の本質」 松木邦裕 監訳 「対象関係論の基礎」新曜社 2003年
- M.バリント(1952) 森茂起 中井久夫 枡矢和子 訳「一次愛と精神分析技法」 みすず書房 1999年
- T.H.オグデン(1994) 和田秀樹 訳 「あいだの空間」 新評論 1996年
- W.R.ビオン(1970)「注意と解釈」 福本修 平井正三 訳「精神分析の方法2」 法政大学出版局 2002年