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躁うつ状態の心因論に関する寄与/喪とその躁うつ状態との関係

メラニー・クラインの1935年の論文「躁うつ状態の心因論に関する寄与」と1940年の論文「喪とその躁うつ状態との関係」の要約と解説である。この2つの論文で彼女は抑うつポジションについて定式化している。

1.躁うつ状態の心因論に関する寄与(1935)の要約

(1)新たなポジションへの到達

パラノイアでの特徴的な諸防衛は迫害者たちを破滅させることが主たる目的であるが、一方、自我の安全が脅かされる形の不安は病像の中心を彩っている。

自我がより組織化されるにつれて、内在化されたイマーゴは現実により近づき、自我はより十分に良い対象と同一視しようとする。最初は自我を護ろうとして生じた迫害への恐れは、今や良い対象にも同様に結びつき、以後は、良い対象の保護が自我の生存と同義とみなされるようになる。

こうした発達に伴って、最も重要な変化が生じる。すなわち、部分的な対象関係から完全な対象との関係への変化である。この段階を通じて、自我は新たなポジションに到達する。このポジションでは、愛情対象の喪失と呼ばれる状況の基盤が形成される。

対象が全体として愛されるようになるまでは、愛情対象の喪失が全体としての喪失として感じられない。

良い対象が悪い対象と一緒に駆逐されてしまいはしないかという恐れから、排除と投影の機制はあまり価値をもたなくなる。この段階では、自我は防衛機制として良い対象の取り入れを頻繁に行う。

このことには、対象へ償いを行うという重要な機制が伴っている。

自我は良い対象に向けたあらゆるサディスティックな攻撃を修復せざるを得ないと感じる。良い対象と悪い対象との間にはっきりした分裂がなされるようになると、主体は、そのサディスティックな攻撃の一切合切を修復により償うことによって、良い対象を修復しようと試みる。良い対象との同一視とそのことによるであろう他の精神的な成熟を通して、自我は心的現実をより完全に認識せざるを得なくなってすさまじい葛藤にさらされることになる。

(2)現実の対象と自我内部に布置された対象との間の恒常的な関連

母親の不在は、自分が外部および内在化された悪い対象に引き渡されるのではないか、という不安を子どもに惹き起こす。それは、母親の死ばかりではなく、悪い母親に扮して戻ってくるという理由からである。両方の場合とも、子どもにとっては愛する母親の喪失を意味している。

注目したい事実は、内在化された良い対象の喪失への恐れが現実の母親が死ぬのではないかという不安の絶えざる源泉となる、ということである。一方、現実の愛する対象の喪失を示唆する体験もまた、内在化された対象を失うのではないかという恐れを惹き起こす。クラインの経験から得られた結論としては、自我が対象との部分的合体から全体的合体へと移行するその発達時期に愛する対象の喪失が起こるということである。

(3)自我が直面すること

自我が愛する対象を追い込みあるいは現に追い込もうとしている崩壊状態に気づくようになるためには、愛する対象とのより完全な同一化および愛する対象の価値をより完全に認識することが必要とされる。すると、自我は、その愛する対象が分解の状態―バラバラな断片―にあり、この認識から由来する絶望・自責・不安が無数の不安状況の根底に存在する、という心的現実に自分自身が直面していることがわかる。

(4)パラノイア患者の特徴

パラノイア患者は、迫害不安があまりにも強く、空想的性質をもった疑惑と不安とが良い対象と現実対象との完全で安定した取り入れを妨害しているため、取り入れた全体対象や現実的対象に完全に同一化することはできないか、あるいは仮にそこまできたとしてもそれを維持することができない。ありとあらゆる疑惑がすぐに愛する対象を再び迫害者に変えてしまう。パラノイア患者の全体対象との関係や現実の世界との関係は、内在化された部分対象と迫害者としての糞便との彼の早期の関係に未だに影響を受けている。

パラノイア患者が全体的な対象関係を維持できないもう一つの重要な理由は、迫害不安と彼自身の不安とが未だに強くうごめいている間は、愛する対象への加重された不安や、さらにこの抑うつポジションに伴う罪悪感や自責に耐えることができないからである。さらにパラノイア患者は、この抑うつポジションでは、良い対象を追い出して失ってしまうという恐怖と、他方、自分自身の内部からも悪いものを駆逐する時に良い外的対象をも傷つけてしまうという恐怖のために、投影を用いることがずっと出来にくくなっている。

こうして抑うつポジションに関連する苦悩が、パラノイア患者を妄想的ポジションに無理やり引き戻してしまう。

(5)患者Xの症例

Xは子供の頃にサナダムシ(彼自身はそれをみたことがない)を持っていたと語ったが、この彼の内部のサナダムシは彼の貪欲さに関連していた。1匹のサナダムシが自分の身体を食い散らかしていると空想し、さらに癌に対する強い不安も全面に出てきた。心気的不安と妄想的不安にかられた患者は、クラインに強い疑いを持ち、特に彼に憎しみを向けている人間と結託しているのではないか、と疑った。明らかになったことは、この危険なサナダムシが、彼に対する敵対的同盟(実際は性交という形で)を結ぶ両親を表していたことであった。

サナダムシ空想が精神分析されていた時、患者は下痢をするようになった。下痢は患者にとって有害な排泄物を意味し、同様に彼の父親の悪いペニスを意味した。下痢には血液が混じっていたが、患者の空想の中での血液は糞便の中でクラインを表していた。幼児期早期には、患者は実際に排便することで両親の性交を妨害した。患者の現実の両親へのこうした攻撃に伴って、闘いの全体が、内在化されるようになり、自我を破壊の脅威に曝した。

精神分析が進み、クラインへの不信が消えた時、患者はクラインに非常に興味をもつようになり、それとともに、無価値感・悲哀感・抑うつ感を伴った強い愛と感謝の感情とが全面に出てきた。彼は胃の心配をしているが、ほんとうは、父親のペニスと患者自身のイド(癌)によって攻撃を受けていると患者が感じる彼の内部のクライン(実際には内在化された母親)を守ろうと望んでいたことが明らかとなった。クラインは今や貴重な良い血を表しており、それを失うことはクラインの死を意味していた。このことは彼の死をも意味した。

抑うつと悲哀が始まった時、良い対象への愛情と関心とが全面に出てきて、全ての感情や諸防衛と同じく不安内容も変化した。他の症例同様この症例でも、妄想的恐怖と妄想的疑惑とはそれらによって圧倒されている抑うつポジションに対する防衛として強化されていたのがみてとれた。

(6)抑うつポジションについて

抑うつ状態は妄想状態を基礎としており発生的にそこからもたらされる、ということである。正常者・神経症者・躁うつ病者またはその混合型の例であろうと、抑うつ状態が存在するところは常に、不安と苦悩の感情およびこれらの多様な諸防衛のこうした特殊な集合化がみられる。それをクラインは抑うつポジションと記載した。

(7)抑うつポジションに至るまでの生後最初の2~3ヶ月間

生後最初の2~3ヶ月間に、子どもは外界の迫害者および内在化された迫害者として感じられる悪い否認している乳房に関連した妄想的不安を経験する。この部分対象との関係や糞便と迫害者たちとの同等視とから、この段階で、空想的で非現実的性格をもった子どものすべての対象との関係が現れてくる。生後、2~3ヶ月の子供の対象世界は、敵意と迫害の部分から成る現実世界、さもなければ満足ないろんな部分から成り立つ現実世界として記載できる。

まもなく、子どもは母親を全体的人物として認知するようになる。そして、こうしたより現実的な認知は母親の範囲を超えた対象へと拡大する。しかし、このことが起きる時は、子どものサディスティックな特に人喰い人種的な空想や感情は最高潮に達している。こうして、破壊的な性質と愛の性質との両方の感情が1個の同一の対象に対して体験される。そしてこのことが子どもの心を深刻にかき乱す葛藤を惹き起こすのである。

(8)抑うつポジションが全面に出てくる時期

正常な事態の経過において、おおざっぱにいって年齢で4~5ヶ月の間で、外的現実と同じく心的現実をある程度認識する必要性に直面する。愛する対象は同時に憎しみの対象であり、加えて、現実対象と想像上の人物像とは、外的と内的なそれとの双方で、互いに密接な関係にある。

子どもが母親をひとりの全体的な人物として認めるようになり、母親を全体的な真の愛する人間として同一視するようになった時、重要な第一段階が生じ、その時に抑うつポジションが全面に出てくる。その抑うつポジションは愛情対象の喪失によって刺激され強化される。この喪失は、赤ん坊から母親の乳房を奪われる時に赤ん坊が何度も何度も体験するものであり、離乳期に最高潮に達するものである。

(9)後の抑うつ状態の基盤

人生のこの時期で、幼児が仮に内部の愛する対象を確立することに失敗するとすれば、つまり仮に良い対象の取り入れが不成功に終わるならば、大人のメランコリー患者でみられるのと同じ意味で、愛情対象の喪失の状況がすでに生じているのである。

こうした最初にして基本的な現実の愛する対象の外的喪失は、もし発達のこの時期に幼児がその自我の内部に愛する対象を確立することに失敗すれば、後の人生においては抑うつ状態だけがもたらされることになる。

2.喪とその躁うつ状態との関係(1940)の要約

(1)正常の喪における現実の検討と幼児期の心的発達過程との関係

クラインの観察では、正常の喪における現実の検討と幼児期の心的発達過程との間には密接な関連がある。子どもは成人の喪に匹敵する心の状態を体験するというよりは、むしろ後の人生で悲嘆の体験をするときは幼児期早期の喪の体験がいつも蘇るということにある。

「躁うつ状態の心因論に関する寄与」という論文の中で、赤ん坊の体験する抑うつ感情はまさに離乳期やその前後に頂点に達すると述べ、これが抑うつポジションと命名した赤ん坊の状態であり、メランコリーの起こり始めの状態であろう、と示唆した。

(2)抑うつポジションの際に生じる防衛

抑うつポジションは次の2つのものから構成されている。1つは(悪い対象による)迫害とそれに対する特有の防衛、もう一つは愛する(良い)対象に向けられた焦心である。

抑うつポジションが現れる時、自我は、それまで幼児期早期の防衛に加えて愛する対象への焦心に対して本来向けられた防衛の方法を発達させざるを得なくなる。この防衛の方法は自我体制全体の基本となるものである。このうち一部を躁的防衛(manic defense)または躁的ポジション(manic position)と名づけたのは、それが躁うつ病と関連があるからである。

抑うつポジションと躁的ポジションとの間の揺れ動きは正常な心的発達には欠かせない一面である。抑うつ的不安(自我のように愛する対象も破壊されるかもしれないという不安)のせいで、自我は万能的・暴力的な空想を作り上げざるを得なくなる。

これの目的とするところは、一部は悪い危険な対象を抑えて支配下におくことであり、また一部は愛する対象を保護し回復させることである。サディスティックな空想と建設的空想という両者の極端な性格は、迫害者のもつ極端な空恐ろしさおよび良い対象のもつ理想の極致と軌を一にしている。

(3)理想化と否認

理想化は、躁的ポジションの本質的要素であり、このポジションのもう一つの重要な要素である否認と切り離せない関係にある。部分的あるいは、一時的に心的現実を否認しないことには、自我は抑うつポジションの最盛期に、思いがけない不運がもたらす脅威に耐えることができないからである。

万能感・否認・理想化はアンビバレンスとは切っても切れない関係にあり、この三者があるから幼い自我は、内的迫害者に対抗し、かつ愛する対象への隷属的で、危険な依存にさからって、ある程度は自らの存在を主張できるのである。こうして心的発達はさらに促進される。

(4)幼児期の抑うつポジションと正常の喪との関連

愛する人物を現実に失った痛手は、内的な良い対象をも失ってしまったという哀惜する人の無意識的空想のせいで、さらに一段と深刻なものになっている。この時、人は内的な悪い対象が勢力を得て、自分の内的世界は崩壊の危機に瀕している、と感じる。

愛する人を失うと、喪の状態では、その失った愛する対象を自我の中でもとの状態に戻そうとする衝動が起こってくる(フロイトやアブラハム)。しかしながら、自分の中に失った当の人物を取り込む(再合体する)だけではなく、心的発達の最も早い段階でその人の内的世界の一部になった内在化された良い対象(最終的には愛する両親)をも再びもとの状態に戻すのだ、と考えられる。

この良い対象は愛する人の喪失を体験した時はいつでも、この内在化した対象も滅び破壊された、と感じられるのがふつうである。それ故に、幼児期早期の抑うつポジション、さらに授乳やエディプス状況その他のあらゆる源泉から生じた抑うつポジションに伴う不安・罪悪感・喪失感・悲嘆などが蘇るのである。これらすべての情緒に混ざって、恐ろしい両親によって略奪されたり、罰されたりする恐怖(つまり迫害感)もまた、心の深層では復活している。

(5)喪の克服

正常の喪の際、悲哀と心痛の合間に出現する一過性の高揚状態は躁的な性質のものである。これは内部に(理想化された)完全無欠の愛する対象をもっていると感じるために起こるものである。しかし、哀惜する人の中で失った愛する人に対する憎しみが沸き起こったら、その人が信じる気持ちが崩れ、理想化の過程が妨げられるのが常である。正常の哀惜する人は、外的対象への信頼と様々な種類の価値観を取り戻すことによって、ごくゆっくりと、失った愛する人に対する確信をもう一度強くすることができるようになる。

次いで、人はこの対象が決して完全無欠ではありえないことに思い至るが、それでもなお、対象への信頼と愛を失わず、また報復をも恐れないでいれるようになる。この時期に達すると、喪の仕事での重要な段階とその克服へと向かう段階が達成されたことになる。

(6)幼児期の抑うつポジションと正常の喪の相違

幼児期の抑うつポジションと正常の喪の相違の1つは、力になり保護してくれる自分の中の良い対象を意味することになった乳房や哺乳瓶をなくした時、赤ん坊は悲嘆を体験するが、大人では悲嘆は現実の人物を実際に失うことによってもたらされる。だが、心を打ちのめすような喪失に立ち向かう助けになる救いの手は、幼い頃に自分自身の中に確立された良い母親から差し伸べられる。

一方、幼い子どもは、まだ母親を自分自身の中に失う恐れのないほどしっかりと確立していないため、内的にも外的にも母親を失う恐怖との闘いの極みにいる。この闘いでは、母親が現に存在するということが一番の見方になる。これと同様に、哀惜する人の周囲にその愛する人たちがいて、自分の悲嘆を共にしてくれて、しかもその人が周囲の同情を受け入れることができるなら、内的世界の調和回復は促進され、恐怖と心痛はいっそう速やかに静まるのである。

(7)超自我についてのクラインとフロイトとの違い

超自我の性質と個人の発達史とに関して、クラインはフロイトとは結論を異にしている。人生の始まり以来の取り入れと投影の過程を通じて、愛する対象(良いもの)と憎しみの対象(悪いもの)は私達自身の内側に確立されており、これらの対象が内的世界を構成している。この内在化した対象の集合体は、自我の体制化とともに体制化され、心の高次の階層のうちに超自我として識別しうるようになる。

自我の中に打ち立てられた現実の両親の命令や感化としてフロイトが認識した現象は、クラインの結論によれば、1つの複雑な対象世界である。これは個人にとって深い無意識の中で自分自身の内側に実在するように感じられ、それ故、共同研究者の一部は内在化した対象や内的世界という用語を用いた。

(8)抑うつポジションの苦しみからの逃避の結果生じること

抑うつポジションと結びついた苦しみから自我が逃れようとしてとる1、2の方法として、内的な良い対象への逃避(この場合は重篤な精神病の原因になろう)か、外的な良い対象への逃避(この場合は神経症になるかもしれない)かの、どちらか一方である。強迫的・躁的・妄想的防衛に基づく逃避のすべては、その人を抑うつポジションと結びついた苦しみからから逃避させる、という同一の目的に適うのである。

この現象は喪の体験に失敗した人たちの精神分析ではっきりとみることができる。彼らは内部で愛する対象を守り確実に回復することができないと感じているので、これまで以上にその対象から目をそむけて、対象への愛情をも否認しなければならない。このため、情緒は全体的にいっそう抑制を被ることになってくる。喪の体験に失敗した人の中にも、躁うつ病やパラノイアの発病を免れる人もいるにはいるが、これは人格全体を貧困にするほどの情緒生活の厳しい束縛があって初めてできるのである。

(9)正常の喪と異常な喪や躁うつ病状態との共通点と相違点

異常な喪や躁うつ病状態の場合と同様、正常の喪においても、幼児期の抑うつポジションが復活してくる。抑うつポジションという用語に含まれる複雑な感情・空想・不安は、幼児期早期の発達で子どもが喪の状態と同時に幼児神経症によって和らげられた一過性の躁うつ病状態を経験する、というクラインの主張を立証する性質をもっている。幼児神経症が消退するとともに、幼児期の抑うつポジションは克服される。

一方正常の喪と他方の異常な喪や躁うつ病状態との基本的な相違点を述べると、躁うつ病者と喪の仕事に失敗した人は、防衛の面で両者の間に大きな違いがあるものの、両者とも、幼児期早期に内的な良い対象を確立することができず、したがって自己の内的世界に安心感がもてないでいる、という共通点をもっている。彼らはこれまで一度も幼児期の抑うつポジションを真に克服したことがなかった。

しかしながら、正常の喪においては、愛する対象の喪失によって復活した幼児期早期の抑うつポジションは、再び緩和され、幼児期に自我が用いたのに似た方法で克服される。その人は、最近失った人物とともに良い両親をも自分の中に復元することによって、さらに破壊され危険な状態にある自らの内的世界を再建することによって、悲嘆を克服し、安全感を自分のものとし、そして真の調和と心の平和に達するのである。

3.躁うつ状態の心因論に関する寄与(1935)の解説

子どもが母親をひとりの全体的な人物と認めるようになるためには、母親を全体的な真の愛する人間として同一視できる必要があり、そのためには愛情対象の喪失が全体としての喪失として感じられるようになる必要もあると論じられていると思われる。しかし、良い対象との同一視ができるようになってくると、自我は心的現実をより完全に認識せざるを得なくなり、愛する対象に向けていたあらゆるサディスティックな攻撃によって追い込もうとしている崩壊状態に気づき、すさまじい葛藤にさらされることになる。

このような葛藤の中でも、自我は良い対象を修復しようとするような償いの機制も生じてくるようである。抑うつポジションはこのような複雑な葛藤が生じるポジションであるということがこの論文では何度も強調されているように思われる。

興味深いのは、症例において、当初クラインに対して妄想的不安や迫害不安を抱いていた患者Xが、精神分析が進むにつれてクラインへの不信が消え、クラインに非常に興味をもつようになると同時に、悲哀感や抑うつ感を伴った愛や感謝の感情が全面に出てきた、というエピソードである。当初はセラピストに陰性感情を強く向けていたクライエントが、セラピーが進むにつれて、セラピストに興味・関心を抱くようになるというプロセスは比較的よく聞く話であるように感じられる。

またそこからセラピストに同一化しようとしたり、セラピストの言動を取り入れようとするようなクライエントの変化も生じてきやすいように思われる。一概には言えないかもしれないが、このようなプロセスの背景には、抑うつポジションが動き始めている可能性があり、部分的な対象として認識されていたセラピストが、全体的な対象として認識され、そこでセラピストの良い部分も実感され、同一化が生じるのかもしれない。

ただ、一方で、そうしたこと自体が後に出てくる羨望に対する防衛的なありかたであるとも限らないのだが。

4.喪とその躁うつ状態との関係(1940)の解説

抑うつポジションにおいて生じてくる抑うつ不安に対する様々な防衛機制について、前作よりも更に洗練されたアイデアが提出されている。またこのような防衛機制と躁うつ病との関連についても検討されており、躁うつ病の病態の解明に大きな貢献を果たしている論文であると思われる。

さらに正常な喪においては、幼児期早期に内的な良い対象を確立できており、抑うつポジションを克服できているが、異常な喪や、躁うつ病者は幼児期早期に内的な良い対象を確立することができず、内的世界に安心感が持てず、抑うつポジションを真に克服したことが無いと指摘しており、幼児期早期において、内的な良い対象を確立することが、後の異常な喪や躁うつ病を防ぐ上でいかに重要であるかということが示唆されているように思われる。

さらに大人での心を打ちのめすような喪失に立ち向かう助けになる救いの手は、幼い頃に自分自身の中に確立された良い母親から差し伸べられる、とも指摘しており、哀惜する人の周囲にその愛する人たちがいて、自分の悲嘆を共にしてくれて、しかもその人が周囲の同情を受け入れることができるなら、内的世界の調和回復は促進され、恐怖と心痛はいっそう速やかに静まる、というような指摘は、グリーフケアの基本的な考えにも通じているようにも思われる。

またこの論文では、超自我についてクラインは「1つの複雑な対象世界である」という考えを示されており、対象関係論的な考えが明確に打ち出されているようにも思われるところも興味深いところである。

5.終わりに

このようなメラニー・クラインを代表とするような精神分析についてさらに詳しく学びたい方は以下の精神分析のページをご覧ください。