マゾヒズムの経済論的問題
フロイトが1924年に書いたマゾヒズムについての論文「マゾヒズムの経済論的問題」の要約と解説である。ここで死の欲動や超自我の表れであるマゾヒズムについて論じており、マゾヒズムを女性的マゾヒズム、性愛的マゾヒズム、道徳的マゾヒズムに分類している。
目次
1.マゾヒズムの経済論的問題(1924)の要約
(1)概要
痛みや苦痛を伴うマゾヒズムは今まで論じてきた欲動の原則に沿って論じてみると説明が不可能となりうる。この論文ではマゾヒズムを幾つかに分けて説明を試みた。
(2)序論
人間の欲動の営みにマゾヒズム的な傾向が存在することは、経済的にいって不可能だというのはもっともなことである。なぜなら快感原則が不快の回避と快感の獲得をその第一目標とする形で心的事象を支配しているとすれば、マゾヒズムは理解しがたいものだからである。もし苦痛や不快がそれ自体目的とするならば、快感原則の面目は丸潰れとなり、われわれの心の営みの番人は、いわば麻酔をかけられてしまっているということになろう。
このマゾヒズムは、われわれの欲動理論にとって大きな脅威を意味しているように思われる。われわれは快感原則を、心の営みの番人というかわりに、生命の番人と呼びたい気持ちになる。しかしそうなると、これまでわれわれが区別してきた死の欲動と性愛(リビドー)の生命欲動にたいする快感原則の関係を探求しなければならなくなるし、そこのところを前もってはっきりさせておくのでなければ、マゾヒズムの問題に手をつけることはできないのである。
(3)三つの原則
「快感原則の彼岸」については以下をご覧ください。
この「快感原則の彼岸」で述べたように、われわれは一切の心的事象を支配する原則を、フェヒナーの安定への傾向の特殊ケースとして把握し、そして、心という一装置は、そこへ向かって押しよせる総刺激量を無力にしたり、できるだけ低いものにしたりする意図を持っていると考えた。バーバラ・ローはこの傾向を涅槃原則と提案した。
しかし、われわれは、快・不快原則を不用意にもこの涅槃原則と同一視してしまった。そうなると、一切の不快は心の中にある刺激緊張の高まりということにならなければならないし、また、一切の快はその低減と一致することとなり、涅槃原則は、われわれの不安定な生命を無機的な静止状態へと導いていくことを目標とする死の欲動に全面的に奉仕することになり、生命の消滅を防止しようと努める生欲動の諸要求にたいして警告を発するという機能を持つことになる。
しかしこのような考え方は正しいはずはない。われわれは刺激量の増大と減少とを緊張感情の系列の中で直接感じ取るのであり、また、快感をともなう緊張もあれば、不快な弛緩もあることは当然である。性的興奮の状態は、かかる快感をともなった刺激増大のもっとも顕著な例ではあるが、しかし唯一の例ではない。したがって、快・不快は、刺激緊張と呼ばれるある量の増減に関係づけられてはなるまい。もっとも快・不快は明らかにこの契機に至大の関係を持っているのである。快・不快は量的要因に依存するのである。
いずれにしろ、死の欲動に帰属する涅槃原則が生物においてはある修正をうけ、この修正のために涅槃原則が快感原則となったであろうから、今後は両原則を同一物とみなすことを避けるべきだ。死の欲動と相並んで、生の諸事象の調整に一役買って出たのは、生の欲動以外のものであるはずがない。こうしてわれわれは興味ある3つの関係系列を見つけ出した。
- 涅槃原則は死の欲動の傾向を表現する
- 快感原則はリビドーの要求とその修正をする
- 現実原則は外界の影響を代表する
これら三原則は、相互に妥協する術を心得ているが、時には衝突して、一方は刺激不可の量的低減を、他方はこの負荷の質的性格の変化を、そして最後に刺激解消の一時的延期と不快緊張の一時的甘受を目指す。以上の説明をまとめてみれば快感原則はやはり生の番人だということになる。
(4)三つのマゾヒズムの形態
マゾヒズムは三つの形態で観察される。
- 女性的本質の一表現として=女性的
- 性興奮の一制約として=性愛的
- 生活態度(行動)の一基準として=道徳的
第2の性愛的マゾヒズム、すなわち苦痛をともなう快感は、他の二種類のマゾヒズムの根底をなすが、諸事情を仮定してみなければ、いつまでたっても理解されないままで終わるだろう。第三の道徳的マゾヒズムは、精神分析の研究によって概して無意識的な罪悪感であることが判明されるようになったものである。これに比べて女性的マゾヒズムはもっとも観察しやすく、不明な点が少なく、すべての関係が見とおせる。まずはこれから説明していくことにしよう。
a.女性的マゾヒズム
女性的マゾヒズムを男性についてマゾヒズム的な空想を手がかりにして知りうるのである。これらの空想は、自慰行為に終わるが、それ自体が性的満足を表現している。マゾヒズム的倒錯者の現実の性交準備行為は、それらの空想と完全に一致する。そしてこの空想の顕在内容は、殴られ、縛られ、絶対服従を強いられ、けがされ、汚辱を与えられる事である。
これらに対する解釈は、マゾヒストは小さな、頼りない、依存した、ひとりでは生きてゆくことの出来ないいたいけな子供として取り扱われることを欲しているということである。もしマゾヒストの空想が見られるケースを研究する機会に恵まれた場合は、それらの空想がその当の人間を女性的な状況に置くこと、すなわち去勢され、交接され、または子供を生むことを意味している事が容易に発見されよう。だから私はこの種のマゾヒズムを女性的と命名したのである。
マゾヒズム的空想の顕在内容においては、罪悪感も表現されるが、これは当事者が何か悪い事を犯し、その罪を様々な苦痛や難行で贖わなければならないと考えられているわけである。これはマゾヒズム的内容の合理化のように見えるが、その背後には幼児期の手淫への関係が潜みかくれている。
他面、この罪の契機は、マゾヒズムの第三の形式、すなわち道徳的形式を考察するきっかけになる。この女性的マゾヒズムは本源的な性的マゾヒズム、すなわち苦痛を与えられることに快感を覚えるという第一のマゾヒズムから出てきたもので、このマゾヒズムは諸種の基本的な、つまりもっとも深い考察を前提とすることなしには解明されがたい。
b.性愛的マゾヒズム
「性欲論三篇」の詳細は以下に詳しく書かれています。
私はその「性欲論三篇」の中の一章において幼児性欲の源泉に関して以下のことを主張した。有機体中に生起する一切の事象は、かならずその構成要素を性欲動要素のために役立たせる性質を持っているのであろう。それは苦痛刺激が不快刺激もまたそのような作用をおよぼすにちがいない。苦痛・不快緊張におけるこうした随伴的性愛興奮は幼児的生理的機制であり、のちに心理的には性愛的マゾヒズムというものをつくりあげる生理学的基盤をなすものではあるまいか。
しかし、この説明には不十分なところがあり、マゾヒズムとサディズムの関係が明らかにならない。さらに生物体中にはたらいていると考えられる二種類の欲動という仮説にもどると、矛盾することのない、別の筋道に到達する。
生物においてリビドーは、細胞中に支配する破壊の欲動にぶつかる。この欲動は、細胞体を破壊し、無機的静止状態へ還元してしまおうとする。リビドーはこの破壊欲動を無害なものとし、その大部分を外部へ放射し、外界の諸対象へ向かわせる。
それが破壊欲動とか征服欲動への意思というものなのであろう。この欲動の一部が重要な役割を演ずることになる。これが本来のサディズムである。死の欲動の残された一部分は、有機体内部にとどまり、上記の随伴的性愛的興奮作用によってリビドーに奉仕する。これが本来の、性愛的マゾヒズムである。
有機体内で作用する死の欲動はマゾヒズムと一致するといってもさしつかえない。その大部分が外界の諸対象の上に移転され終わったのち、有機体内には本来の性愛的マゾヒズムが残る。それはリビドーの一構成要素と生命体そのものを自己の対象とする。
ある種の状況下では、外部に向けられ投射されたサディズム、あるいは破壊欲求がふたたび摂取され内面にむけられるのであって、かかる方法で以前の状況に組みいれられると聞いても当然である。これが二次的マゾヒズムなのであり、本来のマゾヒズムに合流する。
性愛的なマゾヒズムはリビドーと発展段階をともにし、それらの発展段階から変化に富んだ心的被覆を借用する。トーテム動物によって食われるという不安は、原始的な口唇的体制に由来し、父に撲たれたいという願望は、それにつづくサディズム-肛門期から生じ、去勢は、男根的段階または体制の名残として、マゾヒズム的空想の内容となり、また交接され、子供を生むという女性固有の諸状況は、究極的な性器的体制から由来するのである。
乳房が口唇段階で特に重要な役割を演ずる身体部位であり、同じくペニスが性器段階において、そしてお尻はサディズム-肛門期もまた同様である。
c.道徳的マゾヒズム
道徳的マゾヒズムで注目すべき点は、性欲として認めているものとこのマゾヒズムとの関係が曖昧になっている点である。すべてのマゾヒズム的受苦には、その苦痛が愛する人による命令に耐えるという条件が付いている。この条件は道徳的マゾヒズムの場合には消滅する。問題はその苦痛そのものである。真のマゾヒストは、苦痛を与えられるという見込みがあればそれで文句ないのである。この場合は破壊欲動がふたたび内側に向けられ、自己自身に対して荒れ狂うのである。
これらのマゾヒストたちの振舞は、あたかも彼らがひどく道徳に拘束されて、過敏な良心の支配下にあるような印象を与えるということはさきにいった。道徳の無意識的継続の場合にあっては、重点は自我が服従している超自我の極端なサディズムに置かれており、道徳的マゾヒズムの場合にはこれに反して、それが超自我や両親の権威の側からなされるものであろうと、罰を求める自我の自己自身にたいするマゾヒズムに力点が置かれている。
これらいずれの場合も、罰と苦しみを受けることによって満足させられる欲求が問題なのである。そうだとすると、サディズム的努力が本人に意識されず、その人間の態度を見てそれを推察するよりほかないということは、決してどうでもいい事ではない。
道徳的マゾヒズムの無意識性ということは、あるヒントを与える。われわれは「無意識的罪悪感」という言い方は、権威から罰せられたいという欲求だとした。父親に撲たれたいという空想的な願望が、父親と受動的な性愛関係を結びたいという別の願望と似ていて、この願望の退行的歪曲にすぎないことを知るのである。
良心と道徳とは、エディプス・コンプレックスの克服、その非性愛化によって生じたものである。道徳的マゾヒズムによって道徳はふたたび性愛化され、エディプス・コンプレックスは新しく息を吹きかえし、道徳からエディプス・コンプレックスへの退行の道が開かれる。
このマゾヒズムのお陰で良心の大切な部分が失われてしまうのである。他方マゾヒズムは、「罪深い」行為へと人を誘惑し、のちにこの行為はサディスティックな良心の苛責によって償わなければならないのである。マゾヒストは、運命という両親代理者による罰を挑発するために、無益なことをし、自己自身の生命を絶つことをもしかねない。
サディズムの刃が自分自身に向け戻されるという事態は、ある人間の破壊的欲動要素を実人生において消費することを妨げる。このような破壊欲動要素の大部分のまいもどってきた部分が、マゾヒズムとして自我の中に現れてくると考えられる。しかし良心がしめす諸現象は、外界からまいもどってきた破壊欲動はこうした変化なしにも超自我によって受け入れられて、超自我の自我にたいするサディズムの煽りたてるというふうに推測される。
超自我のサディズムと自我のマゾヒズムは相互に補いあい、同一の諸結果を生み出す。こう考えてこそ本能の禁止から罪悪感が生まれてくるということが理解されるのであり、ある人が他人にたいする攻撃を抑制すればするほど、良心はそれだけいっそう厳格で過敏なものになるということも分かるのである。
世人は通常、最初に道徳的欲求があって、本能の断念はその結果だというように考えがちである。これでは一体その道徳なるものがどこから出てきたものであるのかが不明であろう。実際には最初に、外的な諸力によって欲動断念が強いられ、この欲動断念が、良心という形を採ってつぎつぎと欲動断念を要求するところの道徳を作りだしたのである。
そういうわけで道徳的マゾヒズムは、本能の融合が存在することの典型的な証人となる、道徳的マゾヒズムの危機は、それが死の欲動に由来し、破壊欲動として本来外部に向かうべきはずであった死の欲動の一部分が自己自身に向かってくるという点にある。しかしそれは他面、性愛的構成要素という意義を持っているから、当の本人の自己破壊も性愛的満足無しには起こりえないのである。
(5)良心と罪悪感、自我と超自我とエディプス・コンプレックス
「自我とエス」については以下が詳しいです。
私はその「自我とエス」の中で、われわれが分析治療を行っている間に、何らかの「無意識的」罪悪感を持っていると想定せざるをえない場面があるということを述べた。そういった反応が強い場合には、それを重大な抵抗を意味し、われわれの意図の達成を脅かすものだということも書いた。この無意識的罪悪感を満足せしめたいという願望は、疾病利得の強力な前哨陣地なのである。神経症の原因となっている苦悩は、それによってこそ神経症がマゾヒズム的傾向にとって歓迎すべきものとなるところの契機なのである。患者が不幸な状態に陥ると、治ってしまう場合がある。
これは苦悩の一形式が別の物にとってかわられたということであり、問題の一定量の苦悩をもっていることができるようにという無意識的願望にあったということなのである。患者は無意識的罪悪感というものを容易なことでは信じようとしない。だから、「無意識的罪悪感」という呼称のかわりに、「処罰欲求」という言葉を使えば、患者たちの心理状態もある程度は捉えられたことになるだろう。しかしわれわれとしては、この無意識的罪悪感を、意識的罪悪感を基準にして判断したり位置づけたりしないわけにはゆかない。
われわれは、良心の機能は超自我に帰せしめ、罪の意識は自我と超自我とのあいだの緊張ということの表現だと考える。われわれの知りたいと思うことは、どうして超自我がこんな役割を引き受けるのか、なぜ自我は、自己が自己の理想とかけへだたっている場合、怖れ戦かなければならないのかということである。
自我の機能は、自分が仕えている三つの検問所の諸要求を和解させることにあるが、そのさい自我は超自我を手本にしている。この超自我は、外界や無意識の代理者でもある。超自我というものは、無意識の性愛的欲動が最初に選んだ対象(両親)が自我に取り入れられ、そのさい両親に対する関係が非性愛化され、直接的な性愛目標から逸らされることによって発生したものである。こうして初めてエディプス・コンプレックスが克服されるのである。
「自我とエス」で述べたように、自我の内部へのかかる導入にともなうところの欲動分離のために厳格さが一段と強化されるということは大いに考えられる。超自我の中で活動している良心は、自我に対して容赦せぬ態度をとるようにもなる。
無意識の性愛的欲動の対象たることを止めたのち、超自我の中で良心として働き続ける両親という権威は、同時にまた現実の外界にも所属しているわけである。この権威的人格の力は外的現実の明瞭な現れの一つであった。ここからして、エディプス・コンプレックスの代用物たる超自我は、自我の努力のための模範となるのである。
すでに「トーテムとタブー」で推察されたように、エディプス・コンプレックスは、個人的倫理性の源泉であることがわかる。両親から離れていく発達過程において、両親の個人的意義は超自我にとって薄れていってしまう。両親、のちに尊敬する人物の影響が結びつくが、これらの権威的人格は、自我が抵抗力を身につけてしまっているので、自我に取りいれられる必要がない。
両親で始まったこの人格系列の最後のものは、人間の中のごく少数の人々にして初めて非人格的に把握することのできる運命の暗い力である。私は「自我とエス」の中で、死にたいとする人間の現実の不安をも、このように運命を両親のごとくに思いなすということから導きだしてみようとした。
(6)感想
性善説と性悪説がマゾヒズムとサディズムに関係しているのではないかと感じた。また、今まで「マゾヒズム」という言葉に対し、漠然としたイメージを抱いていたが、今回の論文で朧げに掴めたような気がします。
(7)議論したい点
5の文章中に「運命の暗い力」と記されているが、何度読んでも何を指しているのかが理解できない。これについての議論を願います。
2.マゾヒズムの経済論的問題(1924)の解説
(1)成り立ち
マゾヒズムの語源は、ドイツ・オーストリアの精神医学者であるクラフト=エビングが、「毛皮のビーナス」の作者ザッヘル=マゾッホにちなんで名づけられた。
これまで、性欲論三篇(1905)、欲動と欲動運命(1915)、子どもが叩かれる(1919)といった、この横浜精神分析研究会でも取り上げてきた主要な論文において、フロイトはマゾヒズムの問題について議論してきた。そこでは、サディズムが一次的にあり、マゾヒズムは二次的なものにすぎなかった。
しかし、快感原則の彼岸(1920)や自我とエス(1923)で、精神分析に死の欲動の理論が導入され、それにともなって、マゾヒズムが一次的なものであるとされるようになった。
マゾヒズムという名称は、性的なものが含まれているが、実際のマゾヒズムには性的なものが少なく、自己に向けられた破壊性が主であることからすると、被虐性、自己破壊的、自己敗北的と言われることの方が妥当である(北山 2002)。
(2)フロイトのマゾヒズム論に対する精神分析的批判
a.ライヒ
図1 ヴィルヘルム・ライヒの写真
- 道徳的マゾヒズムは快感原則や現実原則と矛盾する
- 自己自身に向けられたサディズムである。
- 欲求挫折、不安、処罰に対する恐怖のためにマゾヒズム的な形でしか欲動充足を求めることができない。
- マゾヒズムの過剰な愛情欲求は早期幼児期に体験された、一人置き去りにされる恐怖に由来している。
b.ホーナイ
図2 カレン・ホーナイの写真
- マゾヒズムを特有の性格構造とみなす。
- マゾヒズム性格者は愛情や配慮は自分で手に入れることができず、依存対象から与えられるものと考えている。
- そのため、自己の無力さや弱さを示すことで相手の愛情や配慮を得ようとするが、その背後には激しい敵意が潜んでいる。
c.フロム
図3 エーリッヒ・フロムの写真
- マゾヒズム性格者は、ファシズムに飲み込まれていった第二次世界大戦に先立つ大衆社会に特有な社会的性格。
- マゾヒズム性格者には、依存対象である失われた中世的な権威に絶えず自己を合体させようとする権威主義的傾向が見出される。
d.クライン
図4 メラニー・クラインの写真
- サディズムが一次的であり、攻撃性が投影同一化と分裂によって自己に向けなおされる時、マゾヒズムになる。
- これらのことが外在化であるが、外の世界に具象的にあるとすることで、幻想的なものよりは対処可能性があり、恐ろしさは減じられるのである。
- 後のクライン派の多くは、倒錯を、性愛性を歪曲する衝動である死の欲動の表れであるとみなした。
e.川谷大治
- 単細胞生物にはアポトーシス(細胞の自然死)はない。多細胞生物になり新たに備わった。
- アポトーシスは遺伝子の存続が究極的な目的。
- 遺伝子からみると、死の欲動は二次的なもの。
3.さいごに
こうした精神分析について興味のある方は以下のページを参照してください。
4.文献
この記事は以下の文献を参考にして執筆いたしました。