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ある錯覚の未来

フロイトが1927年に書いた文化と宗教に関する論文「ある錯覚の未来」の要約と解説である。この論文でフロイトは宗教とは人間の寄る辺ない不安、原始的な不安に対する防衛であり、エディプスコンプレックスに由来していると論じた。

1.ある錯覚の未来(1927)の要約

(1)文化の過去と未来

ある文化が過去においてどのようにして誕生し、どのような発展の道をたどってきたか考えることはあっても、「遠い将来この文化がどのように変遷をとげるか」と問うことは価値のないことである。理由としては、人間の営みをその全ての広がりにおいて展望することは困難で、過去と現在についての知識が限られていると未来についての判断も不確実なものとなるため。

また、未来についての判断において個人的な主観的な期待が入ってしまうためである。よって本論文では、これまで注目してきた小さな部分的な領域だけについて、将来を予測する。そして、この領域が、文化の大きな全体のうちで占める位置についての考えだけを精神分析の視座から述べる。

まず、文化の定義を「人間の生を動物的な条件から抜け出させるすべてのものであり、動物の生との違いを作り出すもの」とする。文化には2つの重要な側面がある。(1)自然の力を制御し財を得るなどの人間の欲求を充足すべく知識と能力、(2)人間同士の関係と、獲得できた財の配分を規制するために必要な制度である。こ2つの側面は互いに分離したものではない。

人間はこれまでに(1)については一貫して進歩を実現してきたし、将来はさらに大きな進歩が期待できる。一方で、(2)について、人間にかかわる問題を規制するという側面では、進歩は実現されていない。人は破壊的で、反社会的で、文化に抗する傾向が備わっていると思われる。そのため、人間関係を規制する新しい方法を見つけ出すことができればこうした文化に対する不満を根絶することができると考える。

文化的な機構を維持するためにはある程度の強制を維持する必要がある。人間は自発的に労働することを望まないし、説得することでは人間の情熱を抑えることはできない。そのため、「指導者(優れた見識を発揮し自らの欲望を制御できる人物)」の存在、役割が重要となってくる。

このような主張にはもちろん反論が出されるだろう。反論としては、「もしも新しい世代愛情をもって接し、思考を尊重するように育て、早い段階から文化の恩恵に浴させるならば、大衆と文化との関係が変わってくる」というものだ。

しかし、未来の世代を教育するためには、利己的でない数多くの卓越した指導者が必要である。こうした指導者たちをどこから調達するのか。何よりも疑問なのは文化的な環境が変われば、人間の問題(上記の下線部)を解決できるのかということである。

(2)原始的な欲望の根

欲動を満足させることができない状態を〈放棄〉と呼び、この放棄を実行させる機構を〈禁止〉と呼び、この禁止がもたらす状態を〈欠如〉と呼ぶ。文化は禁止と、禁止がもたらす欠如を作り出すことによって、古代の時代に確立された。神経症の患者は、放棄に対して反社会的な反応、すなわち近親姦(インセスト)、食人(カニバリズム)、殺人という3つの欲望を示す。

これらの欲動は誰もが否定するが様々な文化圏では異なる姿勢を示している。現在のすべての文化の現状としては、一部の人々の満足が、その他の、おそらく多数の人々の抑圧の上に成立することを前提としているため、抑圧された人々が文化に対して激しい敵意を抱くようになる。暴動を起こさせるような文化は永続する見込みも価値もない。

文化の理想から生まれるナルシシズム的な満足は、文化圏の内部で、文化への敵対的な姿勢を効果的に抑える力ともなりうる。抑圧された階級は、文化圏の外部にある人々を軽蔑することで、自ら抑圧されていることの代償となるからである。芸術作品を創造する営みはすべての文化圏できわめて必要とされる同一化の感情をもたらし、印象的な形で文化の理想を思い起こさせる時には、ナルシシズム的な満足をもたらす。

(3)文化の役割

自然は人間に欲動の制限などは求めないが、容赦なく残酷に人間を殺す。自然から人間を防衛するということが文化の主な役割であり、文化はそもそもそのために存在する。自然の破滅的な力に直面した人間は、文化の無秩序も、その内的な弱点も、文化に対する敵意も忘れ去り、自然の優位から文化を保護するという共同の偉大な営みを思いだす。

自然や運命に対し、人間はどのように防衛するのか。人間は非人格的な力や運命には近づくことができない。しかし、文化により自然を擬人化することで、その力の一部を奪える。人間は自然に父親としての性格を与え、自然を神々と考える。

神々は(1)自然の恐怖をしずめること、(2)死の宿命の残酷さと和解させること、(3)人間が共同して生活することによって生まれる苦痛と欠如の償いをすることの3つの役割の担うことになる。そして、文化的な規範は神々が作り出したものとされ、人間社会を超越したものとして自然界と宇宙の諸現象にまで拡張して適用される。人間の「寄る辺なさ」をどうにか耐えられるものとする必要性から、様々な宗教的なイメージが生まれることになる。

神に対する人間の関係は、父に対する幼児の関係を内面化し、さらに強めたものであるという性格を獲得した。全ての緊急な課題が解決されるわけでもないし、日常的な経験のうちで直面する矛盾は、努力しなければ取り除けないにもかかわらず、宗教的なイメージは文化の最も貴重な財産として評価されている。宗教的なイメージには本当に価値があるのだろうか?

(4)宗教的なイメージについて

精神分析の文脈で「トーテムとタブー」で試みたのは、宗教の発生について説明することではなく、トーテミズムの発生について考察することだった。トーテミズムを宗教と呼ぶべきかどうかを争っても、何の意味もない。

子供が父を慕い敬うようになっても、父親を恐れるように、父親との関係における両義性(アンビヴァレンツ)の兆しが、すべての宗教に深く刻印されているのである。子供が自分の寄るべなさに対して示す防衛の姿勢は、成人が同じ寄るべなさへの反応として宗教を求める衝動のうちに示されているのである。

「トーテムとタブー」については以下を参照。

(5)宗教的な知と科学的な知の違い

科学的な知は、結果をただ受け入れるだけではなく実際にプロセスをたどることで、理解の道が開ける。一方で宗教的な教えについて、同じ尺度で検討しても、教えを信じるべき根拠が得られない。教えを信じる根拠を問うことは、そもそも禁じられている。

(6)宗教性の本質

宗教的なイメージは、経験から生まれたものでも、思考の最終的な結果から生まれたものでもなく、幻想にすぎない。幼児期の父親コンプレックスによって、人間のうちでは完全には克服されない心的な葛藤が発生する。これを宗教によって取り除かれることが、全ての人にとって受け入れられる解決策となるため、心理的な安らぎが得られる。

(7)大衆の危険性

宗教的な教義は幻想であるとすると、私たちの生を支配している文化の別の財産(国家的な機構を規制している様々な前提、男女の性的な関係など)もまた同じ性格のものではないだろうかという新たな問いが生まれる。しかし、私にはこのような広範な領域について考察する能力はないので、幻想のうちの1つの宗教という幻想だけを精神分析的に検討したい。

「秩序を守るために、宗教には真理が存在しないことを知っていて、それを証明できるとしても沈黙しているべきであり、〈かのように〉の哲学の求めに従って振る舞うべきである。」という意義に対しても反駁する用意があるが、信仰を奪われる危険性は全くない。

このような考えを公表して被害をこうむるのは私だけである。もしかしたら、精神分析という学問そのものが不利益こうむる可能性があるが、これまでに様々な嵐に耐えてきたのだから、この新しい嵐にも耐え抜くことができるだろう。

強くて善良なのは神だけであり、人間は弱く、罪深い存在という概念は、あらゆる時代を通じて、道徳を維持するのと同じように、不道徳にも手を貸してきた。人は罪を犯した後でも、犠牲を捧げたり、贖罪をしたりすることで、再び新たな罪を自由に犯せるようになった。

現在は、宗教が人々にとって以前ほど信じるに値しなくなったため、もはやかつてのような影響力はなくなってきている。もし教養がなく、抑圧されている大衆が、愛する神は存在しないと知ったならば、懸念を抱かずに隣人を殺すようになるだろう。これを抑制するためには、文化と宗教の関係を根本的に変革すべきである。

(8)文化との和解の道

自分の欲のために殺人を犯してはならないと文化が命じたのは、人間の共同生活を維持するためである。こうした命令なしでは、人々は共同生活を送ることができないだろう。ところが、殺人を禁止する掟にどのような理性的な根拠があるかは明らかにされていない。

私たちは単に神がこの禁止を定めたと主張してきたのである。このやり方には、法律や命令などその他の文化的な制度にまで浸透してしまうリスクもあった。これらの法律や命令は、時と所によっては正反対の決定を下し、そのことで互いに他の法律や命令などを無効なものとしてしまうことがある。

そのため、神から力を借りるのをやめにして、全ての文化的な機構と規定は純粋に人間が作ったものであると認める方が望ましいのは明らかなのだ。しかし、現代の人間においても、純粋に理性的な動機は、情熱的な衝動の力に対しては無力である。もし古代に原父の殺害が行われていなければ遠慮なしに、互いを殺し合っていたかもしれない。ここで原父とは神の原型である。

精神分析から見ると、幼児期の強迫的な神経症は成長のプロセスにおいて自然に克服されるのと同じように、人類も全体として、長い成長のプロセスにおいて、神経症に類似した状態に陥っているのである。人類は幼児と同様に無知で、知的な能力の弱い時期にも、共同で生活をするためには純粋に情緒的な力を利用する他なかったのである。

だから宗教とは強迫神経症のようなものなのだ。エディプスコンプレックス、すなわち父親との関係から生まれたのだ。このアナロジーから考えると、宗教からの離脱は、人類の成長のプロセスにおいて宿命的な厳しさをもって実行しなければならないのであり、現代はこの成長段階のさなかにあることになる。

だから私たちは理解のある教育者のように振る舞うべきなのだ。人間が進もうとしている新たな段階に抵抗するのではなく、これを促進し、そのもたらす破壊的な力の強さを緩和するように努めるべきである。

(9)現実への教育

「人間は宗教的な幻想の慰めなしでは生きられないのであり、宗教なしでは人間の苦悩と残酷な効果に耐えることができない」と主張されることには反論したい。人間は永遠に子供のままでいることはできないし、「敵だらけの人生」へと船を出さねばならないのである。私がこの精神分析の論考を発表した唯一の目的は、この船出の必要性に注意を向けさせるものであった。

科学は太古の昔から多くのことを教えてきてくれたし、その力はますます強まるはずである。すると誰にとっても生活は耐えやすくなり、文化が誰も圧迫することがなくなるはずである。その時、私たち非信仰者は声をそろえて、「天国などくれてやる。天使たちと雀たちに。」と唱えることができるだろう。

(10)宗教と科学の対立

精神分析家としての私は、ただ幼児から成人に成長するまでの個人の心的なプロセスについて、精神分析によって得られた洞察に基づいて、人類全体の発展について判断しようと試みているだけなのである。そこから、やがて人類もこの神経症的な段階を克服するだろうと、楽観的な予測をたてた。

この精神分析による洞察は不十分なものかもしれないし、これを人類全体に適用するのは不適切かもしれないが、自分の信じていることを語らずにはいられないものだ。我々の科学は幻想などではない。それよりも、科学がもたらしてくれないものを、もっと別のものが与えてくれると考えることこそが、幻想というものだろう。

(11)感想と議論したいこと

最後に述べられているように、個人の成長の心的なプロセスを人類全体の発展について判断しようという精神分析的な試みは、壮大すぎて、確かに不適切かもしれないなと思いました。一方で、本論文を読み進めるうちに、現代の世界で起こっているテロや、天災などについて連想し、フロイトの精神分析の視点から現代社会を捉えると、ある種の答えのようなものが得られたような感覚になりました。しかし、これもまた幻想なのかもしれません。

「自分の信じていることを語らずにはいられないものだ」と述べるも、フロイトは誰に語りかけたかったのか、単に宗教家に対してというよりは、「精神分析は科学ですよ」と他の分野の学者に伝えたかったのか分かりませんが、全体的にフロイトの必死さを感じました。

議論したいことは、個人の成長の心的なプロセスを人類全体の発展について判断しようという試みについてです。科学の進歩が著しい現代社会において、現代人はフロイト精神分析が想定していた人類の発展のどの辺まできているのでしょうか?

2.ある錯覚の未来(1927)の解説

(1)ポイント

宗教とは、幼児的な無力感の体験に基づき、自然を擬人化することによってかつて両親としたようにそれと交渉し取引し和解しようとする防衛的な営みである。

(2)対話の相手であるプフィスター牧師とは

  • プフィスター牧師(1873-1956)
  • 1908年にユングとブロイラーを通して精神分析を知った。
  • その後、30年にわたって彼とフロイトは定期的に文通した友人となった。
  • ユングが創立したチューリッヒ精神分析協会に参加したが、ユングとフロイトが対立した時には、フロイトの側に立った。その後、スイス精神分析協会の創立者の一人となった。
  • 精神分析を信教上の指導や教育問題に適用した。
  • 短期間で転移と抵抗をワークスルーしない精神分析の実践を導入した。

(3)フロイトの精神分析からの宗教解釈に対する批判

a.プフィスター

  • フロイトは宗教現象ではなく、宗教実践の病理的な側面だけに焦点を当てている。
  • 精神分析の中に信者が自分の信仰を高める可能性がある。
  • 宗教には人類の最も高められた理想の一つがある。
  • 精神分析は代理宗教である。

b.カトリック教会

  • 精神分析を汎性欲主義とみなし、告発した。
  • 精神分析をマルクス主義と同様に家族の存在への脅威であると危険視した。
  • クエルナバカ修道院での精神分析的集団療法を実施した結果、大多数の修道士が結婚することを決意したので、修道院が閉鎖された。そのことをパウロ6世は批判したが、絶対的中立の姿勢をとった。こうした姿勢は知識の非宗教化を尊重する教会の信条となっていった。

c.キノドス

  • 精神分析家にとって、自分自身の宗教的確信および自分の患者のそれに関わるものについて、自分の確信から独立した意見を主張することは困難である。
  • 信仰が位置付けられる面は、神経症者にとっても、健常者にとっても精神分析の領域外にある。

d.土居健郎

  • 土井健郎は精神分析の実践に価値判断の問題は棚上げできないとした。

e.ウィニコット

  • フロイトは理性という側面から宗教と精神分析を切り分けたが、精神分析の内部でも理性だけで実践できる部分は少ない。万能感の維持と現実検討の両立は可能である。

ドナルド・ウィニコットの写真

図1 ドナルド・ウィニコットの写真

f.マイスナーやリズト

  • 宗教を精神分析的に探究しても、宗教への批判的な態度や脱価値化にはつながらない。

(4)一神教と多神教

  • 本論文でフロイト精神分析が扱っている宗教とは、主に一神教であるキリスト教のことである。
  • しかし、世界には多神教を信仰する文化や民族は多数ある。中国の道教や日本の神道など。
  • 自然の脅威からの防衛や民族維持のための共通ルールとしての機能は一神教でも多神教でも同様かもしれない。
  • しかし、一方で、一神教はエディプスコンプレックスや超自我、父親の内在化などに端を発するが、そうした精神分析的メカニズムやプロセスが多神教でもいえるのかは疑問。

(5)文化論、宗教論の臨床的意義

 フロイトの論文で「トーテムとタブー」「文化への居心地の悪さ」「幻想の未来」「モーゼと一神教」などの文化論や宗教論は我々のような精神分析臨床をしている人には不人気である。やはり、精神分析的な臨床実践からかけ離れているからだろう。しかし、人間の根源や根本に近づいていくためには必要なことかと私は考える。

目の前におこる現象はもちろん大切だが、その背後に広がる広大な何かについてそこはかとなく注意を向けておくことで、臨床の奥行きと深みが出てくるように経験上考える。そうした意味でも文化論や宗教論、もしくは文芸作品や芸術作品の精神分析的理解は我々の臨床の後ろ盾になりえる。

人間の本質が100年や1000年ぐらいでは変わらないだろう。だとすると、何千年も受け継がれる宗教や文化の積み重なりには、人間の本質に触れる何かが織り込まれていることとなる。精神分析では大人の心の中に子どもの心を見出すのと同じように、原始の世界を見出すことが臨床に深みをもたらすだろう。

最近はすぐにでも使える臨床技法の習得や手順通りにすれば上手くいくマニュアルがもてはやされている。それはそれで良いだろうし、臨床心理業界全体の技量の上乗せには大切なことである。しかし、反面で、それを下支えする根源的な人間理解に触れ、臨床に深みをもたらす智慧をもう少し大事にした方が良いだろう。

(トーテムとタブーからの再掲)

3.さいごに

このような精神分析について興味のある方は以下のページをご覧ください。

4.文献