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制止、症状、不安

フロイトの1926年の論文「制止、症状、不安」についての要約と解説です。これまでのフロイトによる不安の理解は、抑圧があるから、その結果として不安が生じる、としていた。

しかし、本論文ではそのメカニズムを逆転させ、不安が惹起するから抑圧が生じると転換した。

1.制止、症状、不安(1926)の要約

(1)制止と症状の区別

機能が低減している場合は制止という。機能が異常な変化や新たな働きをしている場合は症状となる(4領域における現れ方)。局所化された制止では、自我はエスとの心的葛藤を避ける。

自己懲罰のために出現する制止では、自我は超自我との心的葛藤に陥らずにすむ。全般性の制止は、鬱状態やメランコリーにみられるように、自我は重要な心的課題を負わされてエネルギーが乏しくなり、多くの場所でその消費を同時に制限する。

(2)抑圧と症状の関係

症状とは、ある中断された欲動充足の兆候かつ代替であり、抑圧過程の成果である。エスにおいて意図されていた欲動の蠢きは、抑圧の結果、意図どおりの経過をたどれず、自我は首尾よくその経過を阻止するか、方向を逸らせる。私たちは自我を、エスに対しては無力なもの、と観念しがちであるが、自我がエスにおける欲動過程に抗しようとする場合、自我が自らの意図をほぼ全能である快原理の審級の助けを得て達成するためには、ただ不快の信号を送るだけでよい。

不快信号の産出に用いられるエネルギーは、自我は内部からの危険に対しても外部からの危険に対しても同じ防衛の方法を採る。自我は抑圧されるべき欲動の代理表現の(前意識的な)備給を撤収し、それを不快(および不安)の放出に用いる。

私たちが精神分析において関わりをもつのは、原抑圧を踏襲した抑圧の事例であり、以前になされた原抑圧がより最近の状況に引力的な影響を及ぼしている。

(3)症状に対する自我の二次的防衛闘争

症状は、超自我の要請を満たすものとしてあらかじめ自我に関与しているが、他方で、抑圧が自我編成された場所を示しており、いわば混成的に備給された国境の駅である。それ以降、自我に異質であり、症状によって代理される内的世界において、一つの適応が始まる。こうして症状は徐々に、重要な利害関心の代表者と目されるようになり、自己主張にふさわしい価値を帯び、自我と親密に絡み合い、自我にとって不可欠のものとなってゆく。

強迫神経症やパラノイアにおけるような症状形象が、自我にとって高い価値を持っているのは、自我に利益をもたらすからではなく、ナルシス的満足をもたらすためである(神経症の二次的疾病利得)。これは、自我が症状を体内化しようとする努力を援助し、症状の固着を強化する。別の態度の方は、抑圧の方向をさらに進めていき、症状は不快信号を再び出して防衛に立つように自我に強要する。

(4)抑圧が不安を作るのではなく、不安が抑圧を作り出す

ハンスの恐怖症は、愛情と憎悪の両価性葛藤を解決する試みであることが精神分析を通して判明した。両価性葛藤の別の典型は、情愛が過度で強迫的であることから露見する、反動形成による抑圧である。ハンスは去勢不安によって父親に対する攻撃を放棄し、狼男は去勢不安によって父親から性的対象として愛されたいという欲望を断念する。いずれも抑圧の動因は去勢不安である。

これまで、抑圧によって欲動の代理が歪曲、遷移等々の類の作用を被り、リビードが不安に転化するという命題を唱えてきたが、恐怖症の精神分析的な研究はこれと矛盾する。動物恐怖症の不安は自我の去勢不安であり、広場恐怖の方は誘惑不安であるように思う。大抵の恐怖症は、リビードの要求を前にした自我の不安に帰着する。不安が、抑圧されたリビードから生じることは決してない。

(5)転換ヒステリー、強迫神経症におけるエス、自我、超自我の闘争

真正の転換ヒステリーのように、不安を全く示さない神経症も多い。転換ヒステリーにおいては症状形成がとりわけ不明瞭であり、何に由来するのか言い当てることができない。

強迫神経症の症状は一般に2種類あり、両者は対立する傾向がある。否定的、防衛的、懲罰的なものがより古く、疾病の状態が持続するにつれてあらゆる防衛をものともせぬような満足が際立って増加する。原初の防衛的命令ないし禁止が満足の意味をも帯びるようになると、症状形成の勝利である。

精神分析的観察によると、強迫神経症へと転じる場合、ファルス段階はすでに到達されている。発病する年齢もヒステリーに比べ遅い。強迫神経症の場合、エディプスコンプレックスの破壊はリビードの退行的低減を伴い、超自我は厳格で愛情を欠くものとなり、自我は超自我への従順の内に良心性、同情、潔癖など高度な反動形成を増長させる。反動形成は、ヒステリーにおいては存在しないか、はるかに弱いようだ。

思春期は強迫神経症の発症に決定的な転機をなす。幼児期に中断された性器的編成が、大きな力で再び開始される。一方で、幼児期の攻撃的な蠢きが再び目覚め、他方では新たなリビード的蠢きが、退行によって予め敷かれた軌道に従い、攻撃的破壊的な意図として登場する。

このような性愛的要求の仮装と、自我における強い反動形成により、性欲に対する闘いが倫理的な旗のもとで継続される。自我は自分が性愛的な欲望と戦っていることに気づかず、過度に厳格な超自我は一層その抑圧に固執する。

(6)強迫神経症における抑圧の2つの技法

強迫神経症における抑圧の技法の1つは、なかったことにすること、である。運動的象徴術によって、出来事の結果ではなく、その出来事自体を吹き消そうとする。この技法は神経症のみならず、呪術や民間習俗、宗教儀礼においても役割を果たしている。

もう1つは、孤立させること、であり、強迫神経症に固有なものである。ヒステリーにおいては外傷的印象を健忘に委ねることがあるが、強迫神経症では体験は忘れられないので、体験はその情動を剥がれ、連想的諸関連は抑圧か中断されて、孤立させられる。

強迫神経症者が精神分析の基本原則を遵守することが極めて難しいのは、超自我とエスの間の葛藤の緊張が強く、患者の自我は用心深くなっているためである。自我は強迫神経症の最古にして根本的な戒律の一つである接触のタブーに従い、接触の可能性を棚上げする。

強迫神経症についてネズミ男の症例が有名です。その論文が以下です。

(7)サディズム的対象備給、リビード的対象備給

ハンスでは情愛的な母親との結びつきが抑圧され、狼男では父親に対する女性的な態勢で実際に性愛的なものが抑圧され、その態勢の中で症状形成が成し遂げられる。当初は、リビード編成を精神分析的発達論の口唇段階からサディズム肛門段階を経て性器段階まで追跡し、性欲動の構成要素を全て同列に置いていた。その後、サディズムがエロースと対立する他の欲動の代表者であると見るようになったが、サディズム的対象備給は、リビード的対象備給として扱われる権利をもち、リビード編成は修正される必要はない。去勢不安が別の対象を手に入れるという代替形成には、

  1. 両価性の葛藤が回避できる
  2. 不安の発展に歯止めをかけられる

という2つの利点がある。内的な欲動の危険を外的な近くの危険で代替するというかつての私の精神分析的見解は誤りではないが、表面的である。欲動の要求は、それ自体は危険ではないが、それが本当の外的な危険、すなわち去勢の危険を伴うがゆえに危険なのである。それゆえに、基本的には恐怖症においては外的な危険のみが他の危険によって代替される。

動物恐怖症の不安は、自我の、去勢の危険に対する情動的反応である。これと同じ考え方が成人の恐怖症にも当てはまるだろう。自我はその状況から危険を取り除くために、通常子供時代への時間的退行をする。このような小児的退行がないのが、独りでいることへの恐怖症で、それは独りで自慰に耽ることへの誘惑を回避している。

以下は狼男の症例です。

さらに以下はハンス少年の症例です。

(8)不安の目的と意味

不安状態を精神分析すると、

  1. 特殊な不快の性格
  2. 放散活動(運動性の神経支配)
  3. その知覚

が明らかになる。(2)と(3)は、喪や痛みとの差を明らかにしてくれる。

原初の不安状態における神経支配は意味と目的があるが、情動としての不安状態が繰り返される際には、合目的性は存在しない。不安の出現は、(1)新たな危険状況におかれながら合目的性を欠いたもの、(2)目的にかなった、新たな危険状況の注意喚起と予防のためのものという2つの可能性が区別できる。「危険」とは何か。

新生児においては、何を介して、何が想起されるのか。「出生外傷」におけるランクの試みは成功していない。私の結論では、乳児にある種の不安準備性があることは明らかであるが、後の小児神経症までは説明しえない。

私たちに理解できる小児における不安の表出の条件は、愛する(憧れの)人物の不在である。去勢不安は、貴重と思われていた対象からの分離を内実とし、根源的な不安(出生の「原不安」)は母親からの分離の際に出現する。乳児が危険と評価し、そこから守られようとする状況とは、欲求緊張の高まった状況である。

外部の対象が、出生時を喚起するような危険な状況に終止符を打ってくれる、という経験により、危険の内実は、その条件である対象喪失へと移動する。心的な意味での母親という対象は、子供にとって生物学的な胎児状態を代替したものであるが、子宮内の生活においては対象など存在しなかったことを忘れてはならない。

対象喪失は不安の条件で、不安の果たす機能は危険状況を回避するための信号である。かつて私は、不安は経済論的過程から自動的に生じると思っていたが、現在は、不安は自我によって快-不快の審級に影響を及ぼす目的の信号であると精神分析的には考えている。

エスにおいては、自我に不安を発展させるきっかけを与える過程が準備される。一つは、自我に対し危険状況を賦課する何かが生じ、制止のために不安信号を送るように駆り立てるもので、現勢神経症の病因論にかかわる。

二つ目は、出生外傷に類似した状況の中で自動的に不安反応が生じる場合で、精神神経症の病因論に特徴的である。禁欲や、性欲の蠢きが阻害されたり、心的加工から逸脱したりする場合には、不安は直接リビードから生じ、過剰となった欲求の緊張を前に自我の寄る辺ない状態が形作られ、出生と同様に不安を発展させる。

特定の発展年齢には、一定の不安条件が相応しいものとして振り分けられている。心的な寄る辺なさという危険は自我の未熟な時期と、対象喪失の危険は小児期の自立の欠如と、去勢の危険はファルス期と、超自我への不安は潜伏期と、それぞれ対をなす。

女性の不安条件に小さな変更を加える。女性の不安にとっての問題は、対象の欠如や現実的喪失ではなく、対象の側からの愛の喪失である。

(9)症状形成と不安の発展との関係

症状形成と不安の発展については、(1)不安は神経症の一つの症状である、(2)両者の間により密接な関係がある、という2つの意見がある。(2)の主張は部分的には正当である。広場恐怖者が付き添われることや強迫行為は、不安の勃発を予防しようという狙いがあり、成功している。

この意味で、自我が自らに課すいかなる制止も、症状と呼ぶことができる。症状形成は、危険状況を棚上げすることに真に成功することで、エスにおいて自我が危険を逃れるという側面と、欲動過程の代替物形成という側面がある。

神経症者と健常者を分け隔てるのは、神経症者はこうした危険に対する反応を過度に高ぶらせるという点に求められる。根源的な外傷的不安状況の回帰に対しては、大人になっても十分な保護が得られるわけではない。誰にとっても、それを越えては心の装置が刺激量の要求処理をこなしえなくなる限界があるに違いない。

(10)アドラーとランク批判、神経症の本質

自我は自らに立てた抑圧の策を再び破り、欲動の蠢きに対する自らの影響力を獲得し、危険状況を修正して、欲動に新たな流れを導くことができるかもしれないが、自我はこれに失敗することが多く、自分が行った抑圧を解消することもできない。抑圧された蠢きが退行へと向かう引力は非常に大きく、再び生じた蠢きは反復強迫に従うしかない。または、蠢きが別の流れを辿るのに逆らう現実的困難からの反発で強化される。

精神分析において、自我が抑圧を解消できるよう援助すると、自我はエスに対する力を再び獲得する。神経症の発症の要因は(1)生物学的要因(未熟なまま産み出される)、(2)系統発生的要因(リビード発展)、(3)心理学的要因(私たちの心の装置の不完全さ)の3つが挙げられるが、これ以上の洞察は得られていない。

(11)補足

a.以前に述べた見解の修正

(a)抵抗と対抗備給

欲動の本性が永続的なので、抑圧も永続的な負担である。抑圧を保護するための行動が抵抗である。抵抗は対抗備給を前提としており、自我の変容や反動形成の形をとって、抑圧されるべき欲動と反対方向へ向かう態度の強化として現れる。

(b)リビードの変転からの不安

不安は欲動-不安(出生の状況に類似した危険状況で不随意的、自動的に生じる)か、自我-不安(危険状況が迫ったときに回避を促す自我から生じる)である。リビードが直接不安に置き換わるというかつて主張は意義深くなくなった。

(c)抑圧と防衛

「防衛過程」という術語を「抑圧」と置き換えて使っていたが、欲動要求からの自我の保護という旧来の防衛概念を再び用い、抑圧を特別な場合として包摂させる。

b.不安についての補足

不安は期待と見逃しえぬ関係にある。不安とは何かを前にした不安であり、不確定性と没対象性という特徴がある。不安が対象を見つければ、恐れという。現実不安と神経症的不安の区別という問題もある。神経症的不安は未知の危険に対する不安であり、欲動危険である。

自我に未知の危険を意識化することで、私たちは現実不安と神経症的不安を同じように扱える。不安とは、一方で外傷の予期であり、他方では同じその外傷のやわらげられた反復である。

c.不安、痛み、喪

痛みは対象喪失に対する本来の反応である。不安はこの喪失がもたらす危険に対する反応である。喪は、現実吟味が高度な備給を被っていた対象から撤退する際の別れの痛みに満ちた状況で生じる。

(12)議論したい点

不安と自我のふるまいは一定の発達段階と対をなしているという点と対象関係論のつながり、抑圧と解離の関係などについて興味をもちました。

2.制止、症状、不安(1926)の解説

(1)成り立ち

本書は1925年7月に書かれ、その年の12月に改訂された。そして、1926年2月の第3週に出版された。1924年にランクは「出生外傷」を出版したが、フロイトの本論文はそのランクへの返答として書いたと言われている。

ランクの出生外傷については以下をご参照ください。

そもそも1900年の「夢解釈」の中でフロイトは出生が乳児にとっての最初の不安の経験であると述べている。しかし、その後、フロイトはこの考えを精神分析的に発展させることはなく、副次的な意味として持ち続けていた。ランクはそうした出生外傷を復活させ、人間の根本の不安であると再定義した。つまり、フロイトのエディプスコンプレックスを部分的に否定したことになる。

フロイトはランクの出生外傷について、当初は好意的にとらえていたが、徐々に批判するようになり、結果としてランクは精神分析グループから離れることとなった。

ちなみに本書は米国では「不安の問題」というタイトルで訳されており、力動精神医学の基礎テキストとなっている。精神分析理論と精神病理学とが結びつけられている。

(2)鬱積不安学説から不安信号説へ

初期のフロイト精神分析理論の不安に対する理解は、抑圧によって思考内容を意識から追いやるが、残された情動が症状を形成し、それが不安になってあらわれるとした。いいかえると、現実の外的な原因によってリビドーが鬱積して生じるということである。そして、「不安神経症という特定症状群を神経衰弱から分離する理由について(1895)」において、不安を以下の3つに分類した。

  • 浮動性不安(予期不安)
  • 特定の対象や状況に結びついている不安(恐怖症)
  • 身体症状としてあらわれる不安発作

そして本論文で、そうした学説を転換し、不安信号説にとってかわった。これまでは神経生物学的な色彩が強いものであったが、ここにきて純心理学的な説明が導入されつつあると言える。

また、1933年にはフロイトは不安の発達として以下の4段階を提示した。これは性心理発達に即したものである。

  1. 早期の自我未成熟の段階における精神的に寄る辺ない状態における不安
  2. 幼児初期の対象の喪失の危険
  3. 男根期の去勢不安
  4. 潜伏期における超自我に対する不安

(3)抵抗

本論文では以下の5種の抵抗が記載されている。

  • 超自我抵抗
  • エス抵抗
  • 自我抵抗
    • 抑圧抵抗
    • 転移抵抗
    • 疾病利得抵抗

さらにその後、遺伝的に規定された4種の抵抗を取り上げた。

  • リビドーの粘着性
  • リビドーの可動性
  • 変化への柔軟性の枯渇
  • 罪悪感、マゾヒズム、陰性治療反応と結びついた死の欲動

W,ライヒはこうした抵抗を解決していく方法としてふるまい分析として体系化し、精神分析の中で位置づけていった。

(4)その後の各精神分析家の不安理論

a.クライン

メラニー・クラインの写真

図1 メラニー・クラインの写真

  • 死の欲動によって破壊されるという迫害不安、投影同一化
  • 対象を傷つけて失ってしまうという抑うつ不安
  • 早期不安状況
  • 不安の内容に焦点をあてた精神分析技法、解釈技法

b.スピッツ

ルネ・スピッツの写真

図2 ルネ・スピッツの写真

  • 8ヶ月不安
  • 依託抑うつ
  • 母親を剥奪され、身体的に・心理的に発達することができない。

c.ウィニコット

  • 愛情剥奪
  • 侵襲による精神病的不安

d.マーラー

  • 分離不安
  • 分離-個体化期

(5)不安のメカニズムについて

不安は遺伝的に備わった生存確率を上げるための進化論的な知恵であり、生物が爬虫類の時から備わっている。生命の危険に対して、危険信号(不安)を発することはそれなりの精度で惹起する。しかし、人間が社会的な存在となり、生命の危機ではない、社会的な危機に対しても爬虫類の脳が作用する不安を利用して、危険信号を発している。そのため、社会的な危機に対しての不安については誤作動を起こしやすい。それが現代医学的には不安障害となっている。

行動療法では、こうした誤作動を起こした不安を的確に作動するように、ダイレクトに働きかける。不安が正常に作動するようになるごとに、不安に付随したその人の空想や思い、考えは解消される。不安問題の解決が空想の修正につながると言える。

反面で、精神分析では、不安にまつわる空想を扱うことを技法としている。空想が修正されることによって、結果的に不安の誤作動が修正されることとなる。

3.さいごに

精神分析についてさらに関心と興味のある方は以下のページを参照してください。

4.文献


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