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日常生活の精神病理学にむけて

S,フロイトの1901年の論文「日常生活の精神病理学にむけて」についての要約です。人間のちょっとした言い間違いや勘違いなどに無意識が現れることを論じています。

1.日常生活の精神病理学にむけての背景

失錯行為parapraxisについてフロイトが最初に言及したのは、1898年8月のフリース宛ての書簡の中である。彼はそこで「長い間疑問であったある小さな事柄をついに把握することができました」として、ときどきある名前が逃げてしまい、そこに全く違う名前が変わりに出てくることについて述べている。その一ヶ月後にも、再び別の例をフリースに示しているが、それが『精神神経学月報』(1898)に掲載された「シニョレッリ」の例であった。

当時、フロイトは「夢解釈(1900)」の完成と「夢について(1901)」の論文の準備で時間が費やされており、「日常生活の精神病理学にむけて」に本格的にとりかかったのは1900年末のことであった。初版は1901年、「精神医療神経学月報」に二回に分けて掲載された。1904年には単行本としてほとんど修正なしで出版され、それ以後四半世紀近くの間、フロイトはこの作品に手を加え続けた。

もともとは90頁あまりだったものが300頁以上になっていったが、基本的な解説や理論のほぼ全ては、最初の刊行ですでに述べられており、その後加えられたものは、既に考察したものをさらに明確にするための添え物的な実例や図解であった。

2.固有名詞の度忘れ

フロイトは、「シニョレッリ」という画家の名前を度忘れした。何かを単に忘れるというのではなく、思い出そうとすると代替名として間違ったことが思い出されるという体験をした。さらに、その前に話していたことや、抑圧しようとした考えが、意図しない所で連関し、思い出そうとしたある名前を巻き添えにして、想起を妨げたと考察している。

3.外国語の言葉の度忘れ

あるユダヤ出身の青年の事例であるが、一説ではフロイト自身のこととも言われている。この青年が発した詩句の引用がうまくいかず、「aliquis(誰か)」という言葉が抜けた形で再生された。度忘れした言葉に注意を向け、連想する中で明らかになってきたのは、思い出そうとした詩句と、思い出したくない事柄との矛盾が、想起を妨げたということだった。この例では、代替想起を伴わない形で度忘れが起きる場合があることが示された。

また「aliquis」の例と「シニョレッリ」の例に共通することとして、抑圧された内容から来る内的矛盾によって想念が妨げられる点を挙げている。

4.名前と文言の度忘れ

(1)コンプレックス

失念する名前は、個人的コンプレックスと関係している。職業的、家族的、自己関係づけなど。妨害を引き起こす動機のうち顕著なのは、想起によって不快が呼び覚まされるのを回避しようとの意図である。名前そのものが不愉快なものに触れる場合と、名前がそういった働きをする別のものと結び付けられている場合とがあるとしながら、中には下のような例があることにも触れている。

(2)名前の度忘れによって欲求が充足される例

互いに無意識のまま性愛的な目的や求愛の成否を伝達しあう手段となっている。

(3)度忘れがヒステリーの症状としてあらわれる例

ある患者は、Thに自分の無知を誇示していた(両親への非難が潜んでいる)。

(4)集合的度忘れの例

ある女性の度忘れは無意識の誘惑に対する防衛であった。周りの男性の度忘れは女性の防衛を無意識に理解できる。

5.幼年期想起と遮蔽想起について

「遮蔽想起について(1899)」を取り上げ、失錯行為と関連させて述べている。想起される想い出は本当に重要な別の印象(直接的な再生が抵抗によって阻止されているもの)へ変わる代替である。

遮蔽想起とそれによって遮蔽される内容との間の時間的関係について。

  1. 遮蔽想起は幼年期の中でもごく最初期のものだが、妨げられている内容は当人のもっと後の時期である場合
  2. 遮蔽想起は、最近のどうということのない印象であり、肝心の内容は遮蔽想起の向こう側(それ以前)にある場合
  3. 遮蔽想起と妨げられている内容が時間的に隣接している場合(同時的・隣接的遮蔽想起)

度忘れと遮蔽想起は、「想起がうまくいかない」点、「妨害されていることが知的な感応力により知らされる(誤りだと分かっている、想起を奇異に感じる等)」点では共通している。両者の違いは、前者が固有名詞に関わるもの、後者が一連の印象群、現実または思考の中で体験したものであるということ、また、前者が忘れること、後者は保持されていることだということを挙げている。

「遮蔽想起について(1899)」についての詳細は下記をご参照ください。

6.言い違い

言語学者であるメーリンガーとC.マイヤー「言い違いと読み違い(1895)」を引用している。

言い違いの主な例は交換、予響・先取り、残響・後置、混淆、置換がある。

メーリンガーとC.マイヤーが推定している機制は音や単語が文節に関して相互に影響し合って互いに結び付く。フロイトは、また別に、妨害は、その単語や文、あるいは文脈の外部からの影響によって生じる場合もあるのではないか、と論じている(心的な動機や要因への言及)。

「置換」や「混淆」は「浮遊性、浮動性の言語像」(意識の閾下に位置しながら話される予定がないもの)が影響している。「浮遊性」と、「分析」の様子や、『夢解釈』(1900)で論じた「縮合作業」の役割との間には類似性があると考察している。

ヴントの見解からの考察として、言い違いを積極的に促す要因(連想の止め処ない流れ)と、消極的な要因(言い違いを阻む注意力の弛緩)は、協同して作用を及ぼしている→緩むことによって、連想の止め処ない流れが活動し始める。

神経症の治療の中では、患者があたかも偶然にした言葉や思いつきから、隠れた思考内容を探り出すこともある。

7.読み違いと書き違い

(1)読み違い

  • (誤)オデュッセイアでの結婚式
  • (正)オストゼーでの結婚式
  • (誤)あのお気の毒なW.M
  • (正)あのお気の毒なW.M博士

このような事例が示されている。これらがなぜ起こるのかを説明するのは簡単ではない。適当な潮時を待って先延ばしにするしか方法が無い時もある。だが、解釈が難しい程、意識的な思考では自分とは無縁で、考えてもいないと思うようなものが隠されている可能性が高い。

(2)書き違い

日付の書き間違えはそうであって欲しいと欲望の表現である。名前の書き間違えは侮辱を表現である。文体の中で意図せず本音が出た例もある。

(3)「言い違い」と「書き違い」について

一般的に「書き違い」>「言い違い」であるが。ヴントは話す時は、絶えず意志の制止機能が働いているが、書く時はこれが減速されるため言い違いよりも書き違いの方が生じやすいと主張している。一方フロイトは言い違いよりも書き違いの方が生じやすいと考えているが、フロイトはむしろ物事が上手く機能しているときは意識されていないと主張し、「ほかから来る想念がそちらの方に注意がを向けさせ、注意力が妨害を受けるのが、その根拠ではないか」という考えを示している。

8.印象や企図の度忘れ

この章でも事例が多く報告されているが、一律の結論としては「あらゆる事例において、忘却は不快という動機に根差すもの」であると結論づけている。

(1)物の置き忘れについて

これも意味があり、その正確な忘れ方から「夢遊病者の確定さ」を思わせるものである。置き忘れは、何か無意識の意図が絡まないものはないのではないかと推測している。

上記の度忘れなどの事例を検討すると、辛く不快な表題に踏み込んでいかなくてはならない。不快感を呼び起こしかねない表象から身を守ろうとする基本的な防衛思考。これは、ヒステリー症状を支える支柱の一つと想定出来る。ただ、いつでもこの防衛志向が働くということではなく、心の装置の構成原理はいくつもの審級が重なっている構造であり、防衛志向は下のほうにあるため、上から抑制されている。

また、それ自体を度忘れ出来ない場合は、目標を遷移させ、別の何か意味を持たないような、不快でもない、たまたま繋がったものを忘却させる。

(2)企図の度忘れ

他の事例からも、度忘れによって何かを怠るというのは“ひとつの対抗意志”に起因すると考えられる。

いくらか重要な企図を度忘れする場合はこの「対抗意志」が立ち上ってくる場合であり、あまり重要でない企図の度忘れに関しては第二の機制として、どこかほかの所にある「対抗意志」と外的な連想が生じた場合に転移する場合であることが考えられる。

9.取りそこない

失錯の結果が本質的であると考えられる「取りそこない」、行為全体が目的に反するとしか思われない「症状行為」「偶発行為」という言葉が出てくるが、区別は曖昧。(読んでいてもよく区別がわからなかった)

患者のドアの前で家の鍵を出すという失策行為は敬愛の表れを示している。

止まる階より一つ上の階に上がったという失策行為は気持ちが舞い上がっていた時と、憤慨していた時である。

ぎこちなさと的中精度の確かさという2つの性質は両方とも、ヒステリー性神経症の患者の運動性の症状や、部分的には夢遊病に見られる独特の運動と共通する。おそらく、なにか神経支配の過程に関して共通した未知の変数が存在していると考えられる。

物を壊す、転ぶ、乞食に誤って金貨を与えるなどの失錯行為の原因を調べると、その人の現在の状況にこびりついている問題に突き当たる。

重大な害を及ぼす失敗にまで影響しているのかはまだ疑問が残る。自殺という論点から考えていくと、意識的な故意の自殺の他に、無意識の意図を持つ故意の自殺もある。

偶発的に見える運動の背後に、自分の生命を脅かす激しい憎悪が潜んでいるかもしれない以上、他人の命や健康に重大な害を与える取り違いにも、この考え方を転用することは可能だと考えるのが自然である。

10.症状行為と偶発行為

偶発行為は症状行為と似ている。「何も考えずに」行われ、「純粋に偶発的に」行われ、それ以上、他者からも詮索されない行為。そのため、目立たず、影響が些細なものでないといけない。今まで検討してきた現象と同様に症状の役割を果たしている。

症状行為は健康な人でも患者でも無尽蔵に多様な形で存在している。そして、その行為の下には、他の形で表現しえない意味や意向が隠されている場合が多い。そのため、その人の概略や様子を掴むのに有用な手がかりとなり、時には知人の知りたくないことまでわかってしまうことがある。

紛失するということのほとんどが、症状行為であり、失うことが本人の密かな意図に適うのである。例えば、失ったモノに対する軽蔑の念、贈ってきた人に対する嫌悪感、象徴的に他のもっと重要な対象から比較的どうでもいい対象に転移している場合もある。さらに、暗い運命に対する犠牲、生贄という意味を持つ場合もある。

上記のように、人間の心には無数の穴が開いており、そこから、無意識に押しやった考えや感情が出てくる。

11.勘違い

勘違いの条件は、勘違いが勘違いと認識されておらず、信じられていること。そして、他の人の想い出によって確認されたり、否定されたりすることが可能なもの、の2つである。

勘違いの背後には抑圧されたものに根差す不実、歪曲がある。人間の中にある“真実を通すべき”という圧迫は思いのほか強く、勘違いや失錯行為によって隠していた事実が露呈することが多い。勘違いだけでなく、多くの単純な“書き違い”や“言い違い”の例も同じように、意図以外の心の妨害によって生じていると考えても良いだろう。

12.複合的な失錯行為

「度忘れが勘違いと一体になったもの」「症状行為+置き忘れ」「失錯行為が執拗に繰り返され、しかも手段が変わっていく例」「置き忘れ‐損傷‐度忘れ」「度忘れを繰り返した挙句、ようやく実行した際にやりそこなう例」などが紹介されていた。

失錯行為が組み合わさる複合的な事例から、単純な失錯行為からは見てとれないことを学べるということはない。ただ、形を変えながらも同じ結果を維持し続けるその背後には、定まった目標を目指す一つの意志があるのではないかと考えられる。そして、この一つの意志を克服するには意識的に逆のことを企図するだけでは足らず、この未知のものを意識に教えてやる心的作業が必要。

13.決定論、偶然を信じること、迷信、様々な観点

(1)無意識の動機

私達の心的な働きのある種の不備と、何の意図もないかに見える所作とは、精神的検討を加えてみると、確かな動機を備えており、しかも意識にとって未知の決定要因を動機としていることがわかる。そのような失錯行為であるためにはいくつか条件がある

  • 正常の範囲」という表現で言い表せれる基準を超えてはならない
  • 束の間の一時的障害という性質を帯びていないといけない
  • 「不注意」のせいにするか、あるいはただの「偶然」と片付けたくなるようなものであること

意識できない要因が動機として存在していると示すために多くの事例が掲載。数であれ、名前であれ、思いのまま自由に思いつくことは出来ず、精神分析的な検討を行うと、それには必ず動機となる要因があってそれによって決定されているということが示唆されている。

ただ、決定した行動全てがそうであるわけではなく、決定した行動には意識的な動機による決定と無意識的な動機による決定がある。

(2)パラノイア患者について

普通、私達が関心を持たないような、他人の行動にも意味があると考え、詳しく解釈して突飛な結論を導き出す。通常、精神分析されて無意識の中にあると確認されるものも、パラノイア患者は意識にのぼることが多い。だが、それを他者に遷移することで無価値なものとしてしまっている。このパラノイア患者の理解には何らかの真実が含まれていると考えられる。

(3)迷信について

偶発行為や失錯行為に関して当人がその動機を無意識的に遷移した形で知っていることを示すものとして迷信がある。フロイトと迷信深い人には「偶然を偶然とせず、解釈しないといられない」という共通点はあるが、違いもある。

迷信深い人は動機を外に投射する。そして偶然を外の出来事によって解釈する。

フロイトは動機を内に求める。そして偶然を想念のせいだと考える。

フロイトは「迷信」は敵対的で残虐な蠢きが抑え込まれ、その蠢きに対する処罰が外から自分に迫ってくると期待することで生じると考えた。

(4)既視感について

意識的な空想(ないし白昼夢)があるように、無意識の空想(ないし白昼夢)がある、その無意識の空想の想起に向けられることによって生じる。

(5)「すでに話した」という錯覚について

そのことを話したいという衝動や企図を持っていながら、それを実行することを怠り、今、その衝動や企図の想い出を企図の実行の代替としている。失錯行為をしたという思い込みもある。これらは実際に「する」と同列に置かれるものだが、いくぶん安く上がる。

(6)失策行為があらわす心的要因

失錯行為という形で現れてくる心的な要因の一般的な性質や特性についてを述べている。ここでは、法則や立ち入った規定は考えず、いくつかの疑問に答えている。

a.「失錯行為の種類と、失錯行為によって表現されるものの質とのあいだには、恒常的で明白な関係のあることが証明されるのか」

妨害的に働く想念は、妨害される想念と、想念そのものの連想によって繋がっているか、本質的に異質で、妨害を受ける言葉そのものが、往々にして思いがけない外的な連想によって繋がっているかのどちらかの関係がある。

(a)度忘れ

苦痛な感情を呼び覚ますかもしれない何かを思い出すことが不快で、思い出したくないという気持ち

(b)企図の度忘れ

対抗意志

(c)取りそこない

対抗衝動もあるが、もっとも多いのは何の関係もない衝動が、行為が実行される際にそれを妨害することによって、自らを表現する機会としてそれを利用する場合がある。

(d)偶発行為や症状行為

空想や欲望を象徴的に表す。

b.「失錯行為という形で現れてくる想念や蠢きは何に由来するのか」

妨害的な想念は心の生活の抑圧された蠢きに由来する。

c.「ひとつの想念が、それ本来の十全な形でなく、ほかの想念の変様や妨害という言わば寄生的な形で自らが現れるすべを求めざるをえないのには、どのような心理的な条件が働いているのか」

個々に程度の差はあっても「抑圧されているもの」すべてに備わる独特の性格に、その条件を求めようとしてしまうが、事例を検討すると曖昧になってしまうため、別の方法で解明していくことを期待する。

失錯行為や偶発行為の機制は「夢工作」と題する部分で検討した夢形成の機制と一致する。夢の間違いだらけな感じは日常生活においてはありふれた失錯と同じ具合に生じる。

14.日常生活の精神病理学にむけてのまとめ

様々な失錯行為には、疲れや注意の影響や、音や単語の繋がりの影響だけでなく、隠れた心的要因が連関しているという仮説の基、様々な例を挙げながら考察している。失錯行為はそれが起こって初めて、無意識下にあった葛藤や抑圧に気付くきっかけとなることもある。

日常的に起こるばかりでなく、セラピーの中においても、隠された動機の手がかりとなるような現象である。

15.議論

失錯行為と遮蔽想起、夢分析の知見、色々なものを対比させながら書いているところが面白く、日常的な現象が例として散りばめられているため、とっつきやすい印象を持った。一方、理論や考察は初めの段階からほぼ修正されなかったにも関わらず、四半世紀もの間改訂を続け、弟子や他者の例を次々と加え続けていった背景に、フロイトのどのような思いがあったのだろうか。

疲れや注意集中についての記述があるが、これらは度忘れ、言い違いにどのように影響してくるのか。それ単体では起こらず単なる引き金に過ぎないということなのか。

音や心的な動機の連関の他、印象や象徴、属性が似ていることで代替物として出てくることもあるように感じた(例:「しんごうき」を思い出せず、代わりに「ふみきり」という言葉が出てきた→どちらも止まることに関係する)。

言い間違い、度忘れなどの失錯行為について、本文中の例では、フロイトの考察や解釈があるためある程度自然に読み進めてしまうが、実際に日常やセラピーの中でこれらに気付き、考えていくことには難しさも感じる。クライエントの見立てに役立てたり、セラピスト自身の逆転移に気付くことに加え、クライエントとの間でこうした話題を取り上げる可能性はあるだろうか?

本文中に出てきた失錯行為の例と似たような経験や、やや異なる経験をしている方がいらしたら、発言し合えたらと思う。時代によって、共通するもの、変わってくるものもあるかもしれない。

16.さいごに

日常の間違えといったことをとっかかりにする精神分析について興味のある方は以下のページを参照してください。


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