精神療法家として生き残ること-精神分析的精神療法の実践
ニナ・コルタート(著) 舘直彦(監訳) 藤本浩之・関真粧美(訳)「精神療法家として生き残ること―精神分析的精神療法の実践」岩崎学術出版社 2007年を読んだ感想を書きます。
1.生き残ることの苦しさ
精神分析的心理療法やカウンセリングをしていると本書のタイトルにあるように「生き残る(訳者は生き延びるという和訳が適切としています)」というキーワードは結構思うことがあります。それは自分の人生を全うするという意味と、1回1回のカウンセリングでカウンセラーとして死なず機能し続けるという意味の両方があるように思います。
本書では主にその前者の生き残るを指しているようです。さらにいうと如何に楽しく生き残るのかということが主眼であると訳者は解説で書いています。
確かに精神分析や精神療法、カウンセリングをしていると本当に苦しく、もう辞めてしまいたいと思うこともありますし、プライベートが侵食されることもあります。クライエントさんの夢を見たりすることも稀ではありません(ただしこれはカウンセラーの個人差もあるようですが)。
著者はそのための方法などを著者自身の人生を振り返りながら色々なところで綴っています。著者の方法をそのまま使うことはどうかと思いますが、各カウンセラーが自分自身にフィットする何かを探すことは大切なのでしょう。
2.カウンセラーとして治療者機能を維持する
先ほどのもう一つの意味である「1回1回のカウンセリングでカウンセラーとして死なず機能し続ける」ということもまた重要ですが、この辺りはウィニコットに詳しく書いてあるので省略します。私の体験で言うと、意外とカウンセリングの中でカウンセラー機能が維持できなくなることは多いです。それは私自身の未熟さということが大半かとは思いますが、いくばくかはカウンセラー-クライエント関係の中で起きている相互作用によるものもあります。
すなわちカウンセラー機能が維持できないことこそが、カウンセラーの逆転移であり、その分析を通して、クライエントさんを理解していく一つのきっかけになることもあります。
死に真似ではありませんが、カウンセラー機能が維持できなくなりつつも、カウンセリングから逃げ出さず、ドロップアウトせず、常にクライエントさんと会い続けることに意味があります。1回1回のカウンセリングの詳細な中身を見て行くと、確かに「なにしてるんだ?」と思うようなところは多いかもしれません。しかし、その中で常に居続けることによっていつか解釈に使用できる素材になっていきます。このことも「生き残る」ということに含めても良いのではないかと思います。
こうした苦しい状況で助けになるのはやはり、教育分析や個人分析、スーパービジョンなどでしょう。
3.カウンセリング室の準備
pp36-37あたりでは開業した際のカウンセリング室の準備について書かれており、その必須の準備物として金属製のゴミ箱が挙げられています。なんでゴミ箱がここまで大切なの?って思う人もいるでしょう。
このことについてユーモアたっぷりに書かれているので、おもわずクスリと笑ってしまいました。是非ともこの面白さを他の人にも伝えたいのですが、なかなか言葉にならないのでこの箇所については本書を読んでもらいたいと思います。
4.サイエントロジー
pp97あたりでは少しサイエントロジーについて書かれていました。著者の書き方からもそこにある種の怒りが強く感じられました。私も少し関わってしまい、色々と大変でしたので、なんとなく分かる気がします。
5.メモを取ること
pp102あたりではカウンセリング中にカウンセラーがメモを取ることについて書かれていました。著者はカウンセリング中はメモを取ることに対してかなり否定的なようです。その理由についてあまり詳しく書いてませんでしたけど、著者の経験からの結論のようです。おそらく、個人のやり方や方法や特性、またはカウンセリングの目的によって違うのかもしれません。
6.名前の呼び方
これは英国文化と日本文化の違いかもしれませんが、著者はクライエントさんからどのように呼ばれるのかについてかなり敏感だったようです。ファーストネームで初対面のクライエントさんに呼ばれると必ず「コルタート先生と呼んでください」と忠告していたようでした。日本の場合、ファーストネームでいきなり呼ばれることはまずほとんどないので、この辺りのことが感覚としてまだ分からないところがあります。
ただ、ファーストネームは別としても、確かにクライエントさんによっては、またカウンセリングのプロセスによってはカウンセラーがどのように呼ばれるのか変わってくることもあります。クライエントさんによってはカウンセリングのプロセスによって呼び名が変わって、それを一つ一つみていくと転移/逆転移の局面が少し垣間見れるところもあります。
どのように呼ばれるのかが正しいのかは分かりませんが、クライエントさんがどのようにカウンセラーの名を扱うのかはとても重要な情報だと思います。
7.精神分析家にとって医師の資格と能力
フロイトは1926年の「素人による精神分析の問題」で精神分析家にとって医師資格というのは必要か不必要かについて述べています。簡単に要約すると精神分析家にとって医師の資格は絶対ではないが、精神分析の状況によっては医学的知識が必要になってくることもある、というものです。
pp107-109あたりで著者はアセスメントの章で医師の能力について書いています。著者もアセスメントの段階で医学的知識が必要ではあるけれど、かならずしも医師資格が精神分析家にとって必須ではないとしています。
フロイトにしても著者にしても、精神分析家にとって医師であることは必須ではないとしていながらも、その重要性は認識しているようです。このあたり、臨床心理士の私にはかなり葛藤的になるところです。精神分析家を目指すうえで医師でないことのデメリットは大きいのか、臨床心理士であることのメリットというのはあるのだろうか、そういうことを色々と考えます。この辺りはまだ結論は出ていないですけど、これからも考えて行きたいところです。
ただ、すくなくとも収入の面では臨床心理士であるよりも医師である方が数倍良いでしょう。精神分析家になるための出費を考えたら。それと、臨床心理士が精神分析家になっている例の少なさも不安要素の一つです。