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対象の使用について

D,W,ウィニコットの1963-68年の論文「対象の使用について」の要約です。ウィニコットはここで攻撃性や破壊性について論じています。

1.本論文の背景と経緯

ウィニコットが対象の使用に関する論文を発表していった経緯は以下の通りである。1963年12月29日のある夢についての記述とそれに伴う同僚への手紙がある。「思い出、夢、夢想(Review of Memories,Dreams,Reflections):ユング自伝」の書評に関連した、ウィニコット自身の夢を媒介とした考察である。

また、1965年4月講演からの帰宅途中の列車で書かれたいくつかのうちの一つがある。そして、1968年2月5日「使用」という言葉の使用した。1968年11月12日ニューヨーク精神分析協会での発表と、その臨床例、講演の際のBernard Fine、Edith Jacobson、Samuel Ritvoらの議論に答えて示された拙論「対象の使用についてのコメント」から成っている。

ここでの聴衆の反応に失望したことで、健康を害して行ったという説がある。しかし、リトルは事実として書いているらしいが、疑わしいとする説もある。実際は、クレアに続いてインフルエンザにかかったらしく、その後の心臓発作で生死をさまよう結果になったようである。

1969年1月16日「モーセという男と一神教(1939)」の文脈における対象の使用があり、これは未完である。

1971年に「遊ぶことと現実」が出版された。しかし、1971年1月心疾患で死去した。この年に国際精神分析学会(ウイーン)で発表予定があったようである。

2.ユングの著作の書評に関連したウィニコットの夢

ウィニコットは、「関係すること」から「使用」への変化は、自分の中にある無意識の破壊性に気づいて理解していくことを伴っていると考える。ウィニコット自身、第一の夢では破壊される体験をし、第二の夢では破壊者としての体験をした。その二つの体験はそのままではスプリットされたままであったはずだが、第三の夢ではその両方の体験をした事を知り、そこに解離は無く、結びつける事ができた。しかしそれを達成するためには、割れるような頭痛(splitting headache)を体験し、それに耐える事ができる必要があった。

ウィニコットは特に、明白に実行される破壊と無意識の空想の中で進行する破壊性という対照を重視しているようである。特に後者の重要性について、想像上の破壊ではその後に罪悪感が生まれ、やがて建設的なものへと続いていくはずであると述べている。幼いユングの何か作ってはすぐに壊してしまう遊びについて、この想像上の破壊というものが見当たらないと指摘し、抑うつ的な母親に育てられることで原初的な破壊性にたどり着くことができなかったのではないかと関連付けている。

3.列車で記された覚書

(1)コントロールの主題の発展

ここでウィニコットが言っているコントロールとは、主に原初的攻撃性のコントロールというようなことを指している。十分にコントロールされている子どもや大人について、最初の愛情対象との関係の歴史とその質を検討していくことが重要である。

(2)最初の愛情対象との関係

主体が対象を保有(preserve)する。これは理想化であり、理想化された対象は破壊性から保護されている。次に、主体が対象を使用(use)する。これは健康的な情緒発達によって時間をかけてはじめて達成されることである。最後に、主体が対象を破壊する。個人が成長するにつれて、無意識的空想の中で破壊性が十分に表現されることが可能になってくる。これは破壊に値する完全な対象を体験できているということである。

これに伴って、対象と関係することに付随する破壊に思い及ぶようになり、さらに愛することに付随する破壊的な考えにまつわる罪を、体験することができるようになる。このことを基盤として、与えることと修復することへの動機付けが生まれる。クラインのいう償い(reparation)と賠償(restitution)に近いだろう。

(3)けなすこととの違い

破壊とは異なるものとして、けなすこと(denigration)がある。これは、理想化とは逆の方向に、完璧さからある種の悪さへと対象を貶める(rendering down)ことで、対象を破壊性から守ろうとするもの。

臨床上、次の2つを区別する必要がある。良い対象を損なうことで攻撃されないようにすることがある。これはコントロールを必要とする。理想的な良い対象は破壊性から遠ざけられ守られている、つまりスプリットされているのである。

対象に関係することの根源にある破壊がある。これはコントロールを必要としない。そこで必要とされるのは、乳幼児期早期から、パーソナルな解決を求めて空想の複雑性や置き換え(displacement)が利用できるようになるまで、個人の情緒的な成長に備えた条件を継続的に提供し続けることである。これは個人の未熟さに由来する破壊性(絵がもたらす興奮や破壊に値する価値を損なうために、それを切り裂くような反社会的な人の例)とは区別される。

また、異性愛行動の例を挙げつつ、衝動的な異性愛行動には、不安を軽減しようとする努力の中で、完璧なものを損ない損なわれることが含まれ、これは、様々な破壊性の表現を含む性的空想全般について、それを否定せず、内なる罪の意識を持って、自由に建設的にそれを使用できるようになるという、成熟した異性愛行動とは区別されるべきである、と繰り返している。

4.使用という言葉の使用

(1)患者が精神分析家を使うこと

患者が精神分析家を使うことの原型には赤ん坊が母親を使うことがあるだろう。「使用すること(using)」に「浪費すること(wasting)」も含めるならば、精神分析の長い期間、患者は精神分析家を使用し続けているといえるが、今までは、精神分析家をある意味で使用していなかったが、今や、そして今から精神分析家を使用し始めるといえるような時あるいはところが精神分析の経過にありうる。

これには患者の側の何らかの変化、患者の体験の変化を伴う。このような変化が重要なものとなる患者とそうでない患者がいる。そこに診断の問題(精神分析の適用か否か)がある。

(2)使用に至る前の状態について

精神分析家(対象)を使用できる以前、患者(主体)は「精神分析家(対象)が使用されることがないよう、保護しており、理想対象、すなわち理想化され完璧で実現不可能な対象を持ち続けている。浪費(waste)という形で憎しみ(hate)が表現されうるが、ここでは主体が対象を保護することから自動的に起こってくるものとしての不使用に限定して考察を進めている。主体の経験の内側には対象の使用はないとした上で、精神分析家の主要な仕事は、使用することができない被分析者が、使用すること/使用されることができるようになることだと述べている。

精神分析家のいかなる使用も症状によって妨げられている(preclude)ような状態の患者は、多くの場合、精神分析家の前に現れることも無い。しかし、使用する/使用されることができないという問題自体に直面するのを怖れから、不使用の無限の延長になってしまっている精神分析も多い(その責任は精神分析家にもある)。精神分析の中でどのようにして主体が対象を使用することができ、また使用されることができるのかという問題をおいて他に重要なことはないといえるような、危機のときを迎えうるのは、比較的健康といえる患者である。

5.対象の使用と同一化を通してかかわること

(1)解釈

ウィニコットは、前置きとして「解釈すること(making of interpretations)」と「解釈そのもの(interpretation sa ssuch)」を区別し、「解釈すること」の意味は主に患者に私の理解には限界があるということを知ってもらうためであると述べている。

さらに、精神分析家が解釈すること(interpreting by analyst)が効果を持ちうるならば、それは精神分析家を主観的な現象の範囲の外に置くという患者の能力に関係付けられなければならない、と考える。そこに含まれているのは、精神分析家を使用する患者の能力であり、それがこの論文の主題である。その能力が十分でない境界例の患者においては、終わりのない精神分析が続くことになる。

上記は交流することと交流しないこと(1963)を参考にしています。

(2)備給

「対象と関係すること(object-relating)」と「対象の使用(objectusage)」とを区別するにあたってのもうひとつの前置きとして、「対象と関係すること」を備給(cathexis)という概念に近いものとして明確にしようとする。対象と関係する時に、主体は自己の中にある変化(alterations)が生じるのを許し、そこで対象は意味を持ち始め、投影のメカニズムと同一化が機能し始める。

主体の中の何かが対象の中に見つかる程まで、主体は(感情によって豊かになる一方で)涸渇させられる。これは、どんなにわずかであっても身体的興奮(excitement)を伴っていて、オーガズムという機能的クライマックスの方向にあるものである。

このように、「対象と関係すること」は主体の経験であり、それは独立した主体の言葉で記述することができる。それに対して「対象の使用」という時、「対象と関係すること」は当然の前提として、対象の性質や振る舞いを含む、新しい特徴を加える。

対象は、もし使用されるのであれば、それは投影のかたまり(bundle of projections)ではないという意味で、共有された現実(sheared reality)の一部でなければならない。そこが「関係すること」と「使用」との違いであると述べている。これは、ウィニコットが移行現象(transitional phenomena)と呼んできたものと関連づけられる。

移行現象や移行対象については以下のページが詳しいです。

つまり、赤ん坊は対象を創造するが、対象は創造されるのを待っているというパラドックスを含んでいる。このような「関係すること」から「使用」への変化は、成熟の過程で自動的に生じるものではない。その変化をうまく引き出せる母親もいればそうでない母親もいる。

(3)対象を使用するための能力

対象を使用するために、主体は対象を使用するための能力(capacity)を発達させていなければならないが、これは促進的な環境に依存する成熟過程によっている。対象と関係することと対象を使用することとの間には、主体の万能的支配(omnipotent control)の及ぶ領域の外に主体が対象を位置づけることがある。すなわち主体が対象を、投影的な存在物(entity)としてではなく、外的現象として知覚することであり、事実、それをそのもの自体で、存在物として認知することなのである。

「関係すること」から「使用」への変化は、主体が対象を破壊することを意味する。主体が対象に関係し、対象が外的なものになるに伴い、主体が対象を破壊し、対象が主体による破壊から生き残る(survive)ということが起こる。すると、そこに個人にとっての無意識的空想が可能となり、主体は生き残ってきた対象を使用することができるようになる。ここには、主体が対象を破壊するのは、対象が万能的支配の及ぶ領域の外側にあるからであると同時に、対象の破壊が、万能的支配の及ぶ領域の外に対象を置くというパラドックスがある。

これは情緒発達の早期段階において、備給された対象が実際に生き残ることを通してのみ、到達しうるような態勢(position)なのである。そこには現実であるから破壊されるようになり、破壊されたから現実となるというパラドックスがある。

(4)投影

この段階以降、投影のメカニズムはそこにあるものに気づく(noticing what is there)という行為を助けるようになるが、対象がそこにある理由(the reason why the object is there)にはならない。このような考えは、個体の投影のメカニズムという観点からのみ、外的現実という概念に向かうような理論との決別になると述べ、クライン理論を距離をとっているようである。そしてさらに、私は主体と客観的対象との関係における最初の衝動が破壊的であるという事を当たり前のこととして受け入れることはできないと述べ、死の本能という概念に挑戦している。

ウィニコットは中心仮説として、主体は主観的対象(投影の素材)を破壊してはいないが、対象が客観的に知覚され、自律性を持ち、共有された現実に属している限り、破壊が現れて中心的特徴になると述べている。そして、一般的には現実原則に直面することから怒りや反応的な破壊が生じるとされるのに対して、ウィニコットは破壊によって対象を自己の外側に位置づけることが、現実を作り上げると主張する。

これは、主体は外在性それ自体を見出すという意味において、対象を創造しているともいえるが、この経験は対象が生き残り、報復しない能力次第である。患者の破壊的攻撃は精神分析家(対象)を万能的支配の領域の外側に位置づけようとする試みであり、精神分析家(対象)を保護することなく最大限に破壊的であることを体験できなければ、精神分析家を自己の一部分の投影として使用する自己分析のようなものしか体験できない。

このような深い変化は精神分析家の解釈的な作業に左右されるものではなく、精神分析家が患者の攻撃から生き残ること(報復へと質的に変化することがないこと)にかかっている。生き残ることとは、何より大事なのは当てになること(reliability)だという時に当てにならないでいるということであり、精神分析家の欲求からの言語的な解釈は、むしろ患者の変化を台無しにしてしまう可能性がある。

(5)攻撃性の起源

ここでウィニコットはクライン理論の批判的検討を行っている。対象が生き残ることが不可欠であるような発達の期という考えは、攻撃性の起源についての理論に大きな影響を与える。

赤ん坊が乳房を外的に(投影の領域外に)位置づけるとき、乳房の破壊が目立ってくる。これは噛んだりする実際の破壊的衝動であるが、母親は容易に生き残ることができる。そして、実際の(actual)破壊は対象が生き残ることに失敗した時に生じるもので、そうでなければ破壊は潜在的なものに留まる。

持って生まれた個人差よりも環境の側の違いから来る多様性のほうが限りがないことを考えると、生得的な攻撃性の要因を特に強調する必要はない。そして、この非常に困難な時期をうまく通過させてもらえた赤ん坊は、そうでない赤ん坊と比べて、臨床的により攻撃的である。うまく通過できなかった赤ん坊にとっては、攻撃性は包含できない(cannot be encompassed)ものとなり、攻撃の対象になりやすいという形でしか保持されえない。

伝統的には、攻撃性は現実原則に遭遇した時の反応であると仮定される。しかし、ウィニコットは破壊的な欲動が外在性を生み出すと仮定し、このような攻撃性を、より原初的な望みがないことを意味する絶滅(annihilation)と、もっと後の現実原則との遭遇に関係して生じる怒りによる攻撃との間に位置づける。ここで議論している対象の破壊には怒りは伴わない。

そしてこの瞬間から、対象は空想の中で常に破壊され続けている。この性質によって、対象が生き残っているという現実がそれとして感じられ、感情が強められ、さらに対象恒常性がもたらされることになる。こうして対象が使用されることができるようになる。

最後に、ウィニコットは「使用」から「搾取(exploitation)」を区別する。この問題が解決されている患者は、精神分析家や精神分析の作業を使用することができるが、使用する能力がまさに課題となっている患者に対しては、その破壊性から精神分析家が生き残ることが必要である。そうでなければ精神分析は果てしなく続くことになってしまう、と締めくくっている。

(6)対象の使用のまとめ

対象と関係することは主観的対象に対してのものであるのに対して、使用の場合は対象は外的現実の一部である。これは以下のように推移する。

  1. 主体は対象に関係する。
  2. 対象は、主体によって世界の中に位置づけられるのではなく、見出されていくものである。
  3. 主体は対象を破壊する。
  4. 対象は破壊から生き残る。
  5. 主体は対象を使用することができる。

主体の万能的な支配の領域の外にある対象への愛の背景には、無意識的な破壊が常にある。破壊性の肯定的な価値は、対象が破壊を生き残ることによって、主体の投影機制によって作られた領域の外側に位置づけられるところにある。

そして、主体が使用でき、また自分とは異なる実体を主体の中にフィードバックできるような、共有された現実(shared reality)の世界が創造される。

6.「対象の使用」についての臨床事例

専門分野では高い評価を得ている50歳の既婚男性の事例を取り上げる。その症状は、創造性が発揮できないこと、それを認めないために事務仕事で忙しくしていること、および汚言であり、そのパーソナリティはあまりにも非攻撃的だが頑固な面があるという特徴がある。

精神分析を通して、弱い父親と強い母親という環境のパターンに対する反応に苦しんでいることが分かった。患者は母親の荒々しさを使用して攻撃性をコントロールしていたため、母親を逃げ場として利用できなくなっていた。

患者は精神分析作業を通して自分が攻撃的になるように誘われていると感じ、精神分析家の解釈を実際の攻撃への誘いとして歪めて体験していた。意識的には攻撃的にはなりたくないと感じていたが、夢の中では攻撃性へ到達することができはじめていた。

ある日、患者は宿題をやってこなかった事を謝罪したが、これは優れた知性を使って意識的かつ意図的に懸命に取り組むといういつもの防衛を使わないという意味で、無意識的には精神分析作業をしていたと捉えることができた。彼は17世紀のWilliam Blakeの詩を、母親像へと向かう攻撃性への原初的な恐れを昇華したものと捉え、続いてOliver Cromwellのいた時代には荒ぶる神が荒々しい父親として存在していて、エディプス葛藤が十分に体験できたであろう事を連想する。

この患者の場合は、父親は弱い男で荒々しさはむしろ母親にあったため、風に逆らわないことで自分の攻撃性とそれに対する報復を怖れ続けることになってしまい、風に逆らう危険を冒すことでそれでも変わらない世界を体験することはできなかった。つまり、母親に対する自分の衝動的な行為から母親が生き残るかもしれない事を全く知らずにいた。

また、父親に去勢される前に、早期にセルフコントロールをしなければならなかったために、全ての自発性と衝動に対して抑制的にならざるを得ず、創造性もまたその犠牲になった。しかし、クロムウェルの話(ある種の夢)で患者が無意識に行っていたことは、患者の中にある、王の首をはねた荒々しい男であるクロムウェルの部分に関することであり、それがワークスルーされる必要が残されていた。

7.拙論「対象の使用」へのコメント

(1)怒りや憎悪

ウィニコットは、リビドー欲動(生の欲動)と攻撃的欲動(死の欲動)の融合という伝統的な考えに対して、攻撃的欲動は、最初は筋肉エロティシズムに結びついているのであって、怒りや憎悪と結びついているのではないと述べる。そこには融合の前の時期が想定される。それは一単位、もしくは単一体としての(as a unit or unity)赤ん坊の時期である。例えて言えば竜の口から出る火は呼吸でもあり、破壊的に生き生きとしているということである。これは、現実原則に出会うことに伴う欲求不満に対する個人の怒りとは異なる。

欲動は破壊的であるが、それを対象が生き残ることで対象の使用へと導かれ、空想と対象を投影の領域の外に実際に位置づけることという二つの現象が分離する、という考えから、早期の破壊的衝動には対象の客観化というきわめて重要な肯定的機能を持っていると締めくくる。このような考え方は、青年期の攻撃性についても応用できるとしている。

(2)熱望

ウィニコットは、新生児の破壊的な最初の衝動について、熱望(eagerness)という言葉で描写し直し、また詩人のリルケの言葉を用いて、対象の破壊と生き残りという危険な体験をくぐり抜けることなく、個人が活動することができるところがRaum(空間)であり、それに対して、それが生き残ることによって、個人によって対象化され、使用されるようになった世界を、リルケはWelt(世界)と呼んだと考えている。

8.「モーセという男と一神教」の文脈における対象の使用

「モーセという男と一神教(1939)」の文脈は、モーゼとはエジプト王の側近トトメスというエジプト人であったという仮説に基づき、現在の一神教がアメンホテプ4世(イクナートン)の唯一神アトン信仰に由来するという考えを述べたものである。

その後イスラエルの民はモーゼを殺害するが、その外傷的な体験は抑圧されるが、やがてヤハウェ信仰という別の形で強迫症状の強さをもって回帰する。さらに、このような集団的な症状は、単に伝達されたのではなく、記憶痕跡として遺伝的に本能として体験されていくものであると考える。個人の発達という視点からいえば、子どもにとって父親が持つ意味は感覚性から精神性へという成長の中で欲動を断念していくという形で、本能的に規定されているという考えである。

「モーセという男と一神教(1939)」についての要約と解説は以下のページをご覧ください。

これに異論を述べるにあたって、ウィニコットはフロイトの「終わりのある分析と終わりのない分析(1937)」から始める。その中でフロイトは、精神分析に対する抵抗を考えるにあたって性の欲動と死の欲動の葛藤を仮定するが、それはエンペドクレスのフィリア(愛)とネイコス(闘争)の二元論に遡れるものだとしている。ウィニコットはこれを論拠にして、境界例やシゾフレニアの分析を通して得た経験をもとに、フロイトの死の本能の定式化に関して異論を展開する。

ウィニコットは赤ん坊の発達に関する両親の機能について、まず母親が赤ん坊のニーズに程よく適応することを通して、その未熟な自我は強化され、自分自身の同一性を持つ方向に統合されていくとする。次に、赤ん坊がその子自身の統一性を持つことへ移行していくとき、第三者である父親が果たす統合の青写真としての役割があると述べている。つまり、父親は、子どもに統合とパーソナルな全体性を、最初にみせてくれるものであり、父親は母親の代理としてではなく父親として全体として始まり、後になって重要な部分対象で豊かになるものとして考えるのである。

ここからフロイトに戻り、一神教の起源が、父親についての抑圧された観念にあったというのではなく、むしろ父親を持つことと一神教という二つの観念が、あらゆる個人の個別性を認識しようとする、世界で最初の試みを表現したものだったと仮定する。そして、「終わりのある分析と終わりのない分析(1937)」の中でフロイトがエンペドクレスの二元論を引用していることに触れつつ、この考えがフロイトの支持を得られうるものだと述べている。

部分をかたまりにする(agglomerate)という愛(philia)と、元通りバラバラにするという闘争(neikos)の二元論に必要な貢献として、自身の「対象の使用」の論文を位置づけているのである。

どんな赤ん坊の情緒発達においても、環境の振る舞いが子どもの発達において重量な部分であるような依存の時期があり、そこでは赤ん坊は最初は自分自身では、Not-meを知覚することも認識することも達成していない。そのような早期の段階では、生の本能と死の本能(愛と闘争)は融合したものであり、ウィニコット自身が「破壊」とも呼んだ最初の欲動は、それ自身一つのもの(愛-闘争欲動)である。

つまり欲動は潜在的に「破壊的」なものであり、その破壊性に対して対象が生き残るなら、無意識的破壊空想を背景幕として、対象の使用へと繋がっていく。これはクラインの償い(reparation)の概念を位置づけることもできる。しかし、対象が反応したり報復したりするなら、赤ん坊にとってそれは自分の攻撃性が現実化したもの(投影同一化)と感じられてしまう。

早期の赤ん坊の、「挑発的(provocative)、破壊的(destructive)、攻撃的(aggressive)あるいはクラインに言わせれば羨望的(envious)な衝動は、性の本能と死の本能が融合したようなものであり、現実原則に結びついた避けることのできないフラストレーションへの怒りとは何の関係もない、と締めくくっている。

9.議論と解説

(1)クラインの理論とウィニコットの理論の関係性

クライン理論では、離乳に代表される外的(および内的)対象喪失から、良い対象と悪い対象がスプリットする。そして迫害不安を体験する妄想分裂ポジションを経て、恒常性を持った対象の良い部分と悪い部分のアンビバレンスに持ちこたえられるかどうかという抑うつポジションをワークスルーしていく。このモーニングワークを通して、対象が内在化していくのである。これは、「ない」という現実を受け入れていく中で、内的に「ある」という事を確認していくプロセスとも言える。

それに対してウィニコット理論では、母子のユニットという自他の区別のないところから、good enoughなところでの脱錯覚を経る。そして、対象と関係し、それを破壊することを通して、その破壊を生き残る外的な対象が立ちあらわれ、対象は外的に位置づけられるとともに、対象を使用する事ができるようになる。

クライン理論での抑うつポジションのワークスルーに対応するのは錯覚が徐々に脱錯覚されていくプロセスであろう。藤山はウィニコットの象徴機能の位置づけに関して、「母親からの心理的離乳はこの可能性空間における、移行現象、多様な意味の想像、遊ぶことを媒介として、万能感を完全には放棄しない形で達成される。象徴機能もこの過程の中で成熟するし、移行現象、遊ぶことの系列で成人の様々な文化的経験が成立する」と述べている。

ウィニコットの遊ぶことの理論については下記をご参照ください。

つまり象徴機能は原初的な万能感と外的な現実の橋渡しをする空間で発達していくという捉え方である。ここでは内的な理想像は脱錯覚されていくが、それは外側に拡散し、共有された現実である文化の中に散らばっていくようなことを言っている。これは、外側に「ある」という現実に気づいていく中で、内的には「ない」という事を受け入れていくプロセスをも言える。

授乳という体験を考えると、クライン理論では、外的対象である母親と、授乳されるときの乳房は、乳児にとってスプリットしているように感じられる。それに対してウィニコット理論では、乳児の万能感を支える母親と、授乳されるときの乳房は、スプリットされていない。乳房も抱っこする腕も微笑む表情もあやす声も、全て一体となって交じり合って、乳児の万能感を支えているように感じられる。

母親の位置づけという観点から捉えると、クラインの母親は外的世界を代表していて、乳児は母親との関係を通して、外的世界と折り合いをつけていくことになる。それに対して、ウィニコットの母親は乳児の延長であり、徐々になされる脱錯覚の過程を通して、外的世界を捉え折り合いをつけていくように感じられる。

そうすると、この二つはどんな関係にあるのか、視点が違うだけで表と裏なのか、それとも発達段階や機能水準の違いを伴っているのだろうか。おそらくは、クラインは母親の立場から乳児を見て、それを理論化している。一方で、ウィニコットは乳児の立場から母親を見て、それを理論化しているのである。この違いが、クラインとウィニコットの母親と乳児の理論の違いとして如実にあらわれていると理解できる。

(2)フロイトとユングに関するウィニコットの理解

ウィニコットはフロイトとユングの関係を、そのパーソナリティを精神分析的に捉えつつ論じている。特にユングの幼年時代の記述から、小児分裂病の痕跡を読み取りつつ、それをユングがどのように自己治癒していったか、そこにフロイトとの関係はどんな寄与をしたかを考察している。特にユングが自身の夢についての連想をフロイトに述べるに当たって嘘をついたことを取り上げ、ここで初めて、何も隠せる場所の無い分裂した人格の代わりに、彼は秘密を隠す能力を持ったまとまり(unit)になったのである、と考察している。

そして、ユングの幼児期の遊びについて、ユングが出している素材には、想像上の破壊と言うものが見当たらない。想像上の破壊ではその後に罪悪感が生まれ、やがて建設的なものへと続いていくはずである。赤ん坊が臨床的に抑うつ状態の母親に世話されると、まさにこの原始的な破壊性にたどりつくのが困難になる」と述べている。

(3)交互同一化(Cross-identification)について

交互同一化についてはウィニコット自身の別の論文「Interrelating apart from Instinctual Drive and interms of Cross-identifications)が「遊ぶことと現実」に収録されている。橋本による解題によると、交互同一視とはとり入れ同一化と投影同一視とを総称したものであり、母子関係あるいは治療関係において投影ととり入れが行き交うことを想定している。投影同一化を病理的なものとコミュニケーション的なものとに分ける現代の理解に通じるものといえる。

(4)リルケのRaumとWeltについて

リルケ(Rainer Maria Rilke)(1875-1926)は詩作を通じて、「見ること」から「心の仕事」へと進んでいったらしい。詩人は、見ることによって、外部にあるものを内部の空間に獲得していく。この内部と外部の二項対立を止揚する概念として、「世界内部空間」を仮定した。ウィニコットはここに移行現象的なもの、可能性空間的なものを感じ取ったのだろう。リルケはそこには貫入(通り抜け形象)を伴うとしていて、破壊と生き残ることという差し迫ったところに合い通じるものがありそうである。

10.さいごに

もっと精神分析についてお知りになりたい方は以下のページをご覧ください。