映画『ほどなく、お別れです』が描く死別と哀しみ

先日、映画『ほどなく、お別れです』を観てきました[1]。お葬式、別れ、そして哀しみをテーマにした作品で、鑑賞中は終始、涙と鼻水が止まらない時間になりました。以下はネタバレを部分的に含んでいるので、未見の方はご注意ください。
哀しみの多様な姿―否認と凍結された感情

私は原作も読んでいましたが、設定や登場人物、ストーリーは映画用にリライトされています。ただし、原作で掘り下げられていたテーマは一貫して映画にも盛り込まれていました。死別に伴う哀しみは苦しく、苦しいからこそ人はそれを簡単には引き受けることができません。時間が経てば自然に整理がつく、というものでもなく、むしろ時間は、語られずに凍結された感情を沈殿してしまうことさえある、という現実が本作では示されているように感じます。
また、哀しみは純粋に哀しみの形だけをしているわけではありません。怒り、憎しみ、混乱、恨み、痛み、虚無などといった、一見すると哀しみに見えない形を取ることもあります。あるいは、受け入れたふりや、折り合いがついたふりをして日常を続けることもあります。ミドリを亡くした母や祖母は、表面上は何事もないように生活していますが、それはミドリの死を語らないという否認の上に成り立っている姿でもありました。哀しみは消えたのではなく、語られないまま、別の形に姿を変えて留め置かれているように見えます。
語られなかった死が現前するとき―時間が再び動き出す瞬間
物語の中で転機となるのは、美空がミドリの死を現前に差し出した場面だと思います。そこに現れたのは、単純な哀しみだけではなく、怒りや恨みを含んだ感情でした。あるいは、怒りや恨みの形をした哀しみだったとも言えるでしょう。それらは長いあいだ語られないもの、見えないものとして凍結されていましたが、美空がその死を取り上げたことで、約二十年止まっていた時間が動き出します。ここで動き出したのは、何かを克服するための時間というより、これまで語られなかった感情が、ようやく語られうる場を得た時間だったように思われます。
哀しんでいる人の哀しみの根に触れることには、強い抵抗があります。さらに苦しませてしまうのではないかという気づかいや配慮も生じますし、実際に状況や準備性によっては侵害になることもあり得ます。ただ一方で、語らせないことや聴かないことが、配慮の仮面をかぶった否認になってしまう場合もある、という難しさも本作は示しています。語られないままの哀しみは、終わったことにされたまま、しかし終わらないものとして残り続けます。
哀しみを十分に哀しむための条件―時間・語り・聴き手
哀しみに直面するということは、それを早く処理するためではなく、十分に哀しむための条件を整えることなのだと感じました。そのためには、語る準備ができていること、実際に語ること、そしてその語りを聴いてくれる他者がいることが欠かせません。さらに、語るためにはやはり時間も必要です。時間、語り、そして聴き手という条件がそろって、凍結していた感情が少しずつ動き出し、哀しみが哀しみとして経験されていくのだと思います。
この映画のテーマは、哀しみをうまく乗り越えることや、きれいに受け入れることにあるのではなく、哀しみを十分に哀しむことができる、という点にあると私は受け取りました。哀しみを避けず、しかし拙速にも扱わず、語りとともに時間をかけて向き合うことの意味を考えさせられる作品でした。
まとめ
本作が描いているのは、哀しみを克服する物語ではなく、哀しみがようやく哀しみとして経験されていく過程であるように思われます。ミドリの死は長いあいだ語られない出来事として家族の中に置かれ、感情は凍結されたまま残されていました。しかし、その死が取り上げられたことで、止まっていた時間が再び動き出します。
哀しみに向き合うとは、それを早く整理することではなく、十分に哀しむことができる条件を整えることなのだと思います。語ること、そしてその語りを聴く他者の存在があって、凍結していた感情は少しずつ動き出していくのでしょう。
身近な人との死別は、時間が経っても心の中に残り続けることがあります。しかし、その哀しみを一人で抱え続ける必要はありません。カウンセリングでは、言葉にしにくい感情や長く抱えてきた思いについて、安心できる場の中で少しずつ語っていくことができます。語りとともに自分の気持ちを見つめ直していくことが、凍結していた感情を動かし、哀しみを哀しみとして経験していく助けになる場合があります。もし大切な人との別れによる苦しさや哀しみを抱えているのであれば、カウンセリングという場も一つの選択肢として検討してみてください。



