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開業カウンセラーの孤独とそのワークスルー

国際心理支援協会が主催する心理臨床に関する自主シンポジウム「心理職の開業の苦労と工夫」に登壇しました。そこで発表したことを掲載します。

1.はじめに

カウンセラーとして開業することにまつわる困難さは色々とあるでしょう。資金繰り、集客、管理維持、経費節約、報酬、クライエントとの密な関係、プライベートとの線引きのあやふやさ、地域とのつながり、同業者からの羨望、休みの取れなさ、カウンセリングのオンライン化の難しさ、等がすぐに頭に思い浮かびます。

また、最近では中国武漢からやってきた新型コロナウイルスによる打撃などは開業している人には頭を悩ませている問題でしょう。これらを解決することについて、それなりに難しさはありますが、物理的な工夫次第で、何とかなる問題であるようにも思います。そして、私はそうした物理的な工夫で何とかなる問題にはあまり興味はありません。

では、物理的な工夫で何ともならない問題とは何があるでしょうか。私はその問題の一つとして孤独(Loneliness)を取り上げたいと思います。ちなみに孤立とは違います。孤立は物理的に一人でいる状態です。ですので、誰か人のいる場所にでかけていくだけで孤立は解消できます。孤立とは違い、孤独とはきわめて内面的な体験であり、パーソナルな部分に関連しています。

この論考では開業カウンセラーが抱える孤独について明らかにしていきます。しかし、その孤独を単に解消する方法の提示を目論んでのことではありません。後の議論で取り上げますが、孤独との付き合い方や抱え方について、私の考えをお話しできたらと思っています。

2.開業カウンセラーの決断と孤独

開業とは、そのカウンセラーが全てを一人で行わざるをえない状況へと身を投じることです。それは開業一本で営んでいく場合は当然ですが、他の職場をもちつつ、部分的な開業をする場合でも当てはまるでしょう(部分的な開業では孤独ということも部分的にしか体験することはできませんが)。

運営や経営について誰かに相談することはしたとしても、最終的にはその開業カウンセラーが責任をもって決断せねばなりません。その決断のいかんによっては、収入や集客に多大な影響を及ぼし、結果的に自身に翻ってきます。さらに、そもそもの開業しようという決断そのものも自身に大きく翻ってくることといえるでしょう。

もしこれが組織に属していたり、誰かの部下でいたりすると、局面によっては自身で決断することもあるでしょうが、どこまでいっても最終的にはその組織のトップや、もしくは上司が責任を取ることになります。つまり、そうした状況では孤独は体験できず、常にだれかに頼り、依存し、寄生し、責任放棄するという立場に居続けねばならないのです。

開業カウンセラーはこうした不安な状況を一人で抱え、かつ、その不安を共有したり、明け渡したりすることはできません。まさに孤独を体験していると言えます。

3.孤独の誤魔化し

孤独はある種の心的な苦痛を引き起こします。不安や心配、恐怖、自信欠如などがその代表でしょう。人間は苦痛を感じると、それを解消、解決しようとします。おそらく遺伝子レベルで我々に刻み込まれた防御機構なのでしょう。

この孤独をどのように誤魔化す方法はあからさまなものから、巧妙なものまで様々にあるようです。

ここで、私自身を素材にした短い体験を紹介します。私は開業後、ある困難な患者の精神分析的心理療法を行っていました。分析は行き詰まり、緊迫した関係性が長々と続き、私は徐々に疲弊していきました。私はそうした時、たまたま募集していた事例検討会の発表にエントリーしました。そして、事例検討会でその事例を発表し、コメンターからいくつかの助言を得ました。その助言はそれなりに的確であると私は感じ、安堵しました。しかし、それが実際の事例に進展をもたらすことはありませんでした。

こうした素材にあるような出来事は、カウンセリングをする者であれば、1つや2つは体験したことがあるかもしれません。こうした事例発表は研究という観点からも、訓練という観点からも基本的には推奨される行いであるといえます。そして、事例検討会で得られた助言は有用である部分もありました。

ただ、ここで重要なことは、孤独ということが否認され、孤独に関して理解を深めるということができていないといえる点です。言い換えると孤独を誤魔化したということです。一見すると、正当で、妥当な行いの陰に隠れてはいるが、孤独を誤魔化すメカニズムが作動しているということができます。

その他にも、開業をすることはするにしても、共同開業をするという人もいるでしょう。共同で開業することで力強く感じるし、困った時に助け合えるという側面がないわけではありません。また、他の仕事をしながら、部分的に開業する人もいます。大学教員が週末だけ開業するというケースは典型例でしょう。部分開業をすることで、開業がうまく行かなくても他の仕事や大学の仕事が残っているので、生計にはほぼ支障はありません。

これは資本主義社会を生きていくという意味では必要なことかもしれません。もしくは医療法人の中のカウンセリング施設として開業をするのであれば、資金面でも運営面でも法人がカバーしてくれるので、おんぶに抱っこで開業をできるでしょう。不安なんて1つもないでしょう。

しかし、こうしたことは私の素材と同様に孤独を避けるための方策であるといえます。

4.精神分析から見た孤独

ここまで孤独をそこまで定義せずに敢えて使用してきました。この項ではそもそも孤独とはどういうものなのかについて議論します。

S,Freudは直接、孤独に言及している箇所は私の記憶の限りありません。しかし、彼は一次ナルシシズムの存在を認め、その観点から乳児は外界とは遮断され、乳児は一人でいることを余儀なくさせられる存在とされています(S,Freud 1914)。この視点は、後にD,W,Winicottが発展させています。

一方で、M,Klein(1963)は孤独を、抑うつ不安からくる孤独、妄想的不安からくる孤独、そして、自我の統合からの孤独の3つに分類しました。前二者はM,Kleinらしい分け方であるように思います。ここで重要なのは3つ目の自我の統合からの孤独です。乳児は生後3~4ヶ月以降には、妄想分裂ポジションから抑うつポジションに移行し、自我が統合に向けて動き出します。そこでは、良い対象と悪い対象が統合され、破壊的衝動と愛情も統合されます。

しかし、完全で永久的な統合は決して起こらず、終生、その両面の葛藤が存続する、と彼女は述べています。そうした葛藤の中で分裂排除された部分を再獲得したいという切望はあるにもかかわらず、それはかないません。その分裂排除された部分があるため、自己が完全に所有していないという喪失の感情が生まれます。それが孤独であると感じられます。つまり、孤独は成長の過程で必ず体験することであり、そして、成長後もその孤独は依然として持ち続けるものであると彼女は言っているのです。言い換えると、孤独がない状態が通常なのではなく、孤独である状態が通常であるという転回的な主張です。

この転回的な主張はD,W,Winicottも述べています。D,W,Winicott(1958)は誰かと一緒にいて、しかも一人でいることができることを「一人でいられる能力」と呼びました。これは言い換えると孤独でいられることや孤独を楽しめることです。誰かと一緒にいることを強迫的に求めたり、誰かといると自分を保つことができず、その誰かのことを常に意識してしまったりすることが、ある意味では病的なことなのです。そして彼はこうした一人でいられる能力が健全に育つためには乳幼児期の間に母親をはじめとした養育者からの適切な育児を経験している必要があると示唆しています。

ここで再びS,Freudに戻ります。彼は刺激防壁という概念を提唱し、有機体が保存され、生存するためには内的・外的な刺激から隔離され、かつ、そうした刺激を「知覚しない能力」が必要であると述べています(S,Freud 1920)。ここでも孤独という用語を彼は使用していませんが、一人でいること、孤独でいることが健全な成長に必要なことであると示唆しています。

さて、精神分析では一人でいることや孤独でいることが人間としての成長や健全さには必要不可欠なことであることをレビューしてきました。これをW,R,Bion(1963)は精神分析技法として活用しています。彼は孤独でいることが人間としても重要であると同時に、精神分析の中で孤独でいることも重要であると指摘しました。そして、精神分析家も被分析者も孤独を体験する機会を奪ってはならないと強く主張しています。そして、この感覚を持ち続けることが精神分析の進展と人間としての成長を促すのです。

孤独は乳幼児期から人間が抱えている情緒体験であり、避けるべきものではなく、抱えて生き続けるものであることがこれらから分かるのではないかと思います。

5.孤独のワークスルー

前項では精神分析的な立場から孤独について議論してきました。ここで、再び開業の実際に話を戻します。開業カウンセラーは物理的には孤立はしていません。多くの場合が学会や研究会に参加しており、そこには研究仲間や臨床仲間が必ずいるでしょう。また、プライベートでは家族や友人などがいます(いない人もいるかもしれませんが)。そして、ほとんどの場合が多くの患者を抱えているので、日々、数人の患者とそれぞれ50~60分の時間を過ごしているでしょう。そうした意味では孤立はしていません。

しかし、オフィスを運営していても、患者と向き合っていても、不安はつきまといます。この不安は誰にも頼れない心細さです。例え、誰かに助言をもらい、参考になったとしても、最終的に決断し、実行するのは開業カウンセラー自身です。もし仮に失敗やミスなどがあれば、直接的にその代償はその身に降りかかってきます。こうした苦痛を許容できず、耐えかねてしまうと、3項で示したような誤魔化しをしてしまいます。この誤魔化しは他者に対しての誤魔化しではなく、自身に対する誤魔化しなのです。

W,R,Bionが示した通り、患者が孤独を体験することが重要であるとするなら、開業カウンセラーもまた孤独を体験することが重要でしょう。ただし、孤独に慣れるということではないことは明記すべきです。慣れるということは、そこに孤独に本質的にまつわる苦痛という要素を体験できないことになるのです。これは麻痺と言い換えることが可能かもしれません。生きることは苦痛の連続であり、その最もたるものが幼少期から抱えているこの孤独です。

さらに、誤魔化しという言葉から否定的なものを想起するかもしれません。しかし、誤魔化すということはそれだけ孤独にまつわる苦痛や苦悩がそこには孕んでいるということができます。この苦痛と苦悩の特質を探求することにより、別方向から孤独について理解を深めることができます。つまり、誤魔化すことや誤魔化しから孤独に接近することができるといえるでしょう。そのためにはこの誤魔化すということはやはり通過しなければならない事象であるかもしれません。

孤独であることを知り、孤独を繰り返し体験し、孤独への理解を深め、孤独と共にこれからの人生を歩んでいくということについて、覚悟を持って取り組み続けることがカウンセリングです。そして、それがもっとも取り組みやすいのが開業カウンセラーであると私は考えます。孤独を抱える主体のあり方と、孤独を放棄したくなる主体のあり方、さらには孤独を誤魔化す主体のあり方が、おそらくは何度も繰り返し、行ったり来たりします。T,Ogden(1994)はこうした揺れ動きを弁証法と呼びました。弁証法的な揺れ動きを繰り返すことによって、孤独のワークスルーが進展するのです。

6.さいごに

孤独とは人間が本来的に抱える根源的な情緒の一つであり、一生涯にわたって抱え続けねばならないものであると私は考えます。その孤独を放棄すること、孤独を誤魔化すこと、そして、孤独を抱えてどう生きていくのかということを極めて生々しい実態を直視していくことが開業カウンセラーの生業といえるでしょう。そして、この孤独を体験できないことは、開業をする上では大きな損失であるといえるかもしれません。

7.引用文献