トーマス・オグデン(著)分析の第三主体-間主体の臨床を考える
トーマス・オグデンはアメリカで分析臨床を行っている独立学派に属する精神分析家です。そのオグデンが創出した主要な概念である分析の第三主体について要約と解説を行います。またオグデンの経歴についても解説します。
目次
1.「分析の第三主体-間主体の臨床を考える」の要約
本論文では精神分析的な設定において、主体性と間主体性の相互作用の性質の概念が技法にどのような意味をもたらすのかを2つの症例を用いて検討します。クラインやウィニコットの理論によって、精神分析の主体というのは主体と対象の相互依存に移ってきました。これはそれぞれに主体があるということではない、ということになってきたということです。
精神分析家と被分析者の間主体性の内側にいながら、同時にその外側にもいるという体験を「分析の第三主体」と呼ぶことにしました。これは弁証法的な産物であるともいえます。
(1)症例 盗まれた手紙
この症例は非営利団体の部長をしている45歳のLさんです。彼とはこれまで3年間ほど精神分析をしてきました。そのLさんとの1つのセッションを提示します。
セッションの中で私は診察室のテーブルに置いている1通の封筒を見ていました。この中の手紙はとてもデリケートで重要な内容だったのですが、料金別納のマークが貼られていたことからすると多くの手紙の内の1つ程度にしか思われてないと想像し、私はがっかりしていました。私はその手紙の主にかつがれていたのかもしれないとまで妄想していました。そこから私は郵便袋のイメージ、蜘蛛の卵のサック、ネズミのテンプルトンなどの無数の断片的な連想が浮かびましたが、逆転移の分析をするフリをしているだけのように感じていました。
彼は家族の話をしながら、「自分が登場人物という感じがしないし、一人ぼっちのように感じる」と語りました。彼は憔悴しきっていて、希望を感じられないにも関わらず、自由連想をチンタラと続けているように私には見えていました。私は彼にかつがれているように思い、その考えを心の中から取り除こうと努力していました。彼はしばしば夢を報告しましたが、いずれも絶望に取り残され、不毛で、生き生きとした感覚がないようなものばかりでした。
こうしたことを私は精神分析的に見栄えの良いフォーミュレーションをしましたが、それは陳腐で、情緒性に欠けるものでした。私はナルシスティックになっていました。そうしているうちに、私に別の連想が沸いていました。修理屋に出していた車を取りに行くためには、このセッションが終わったらすぐに向かわねば、閉店までに間に合わないという空想です。そして、閉店に間に合わず、お得意様である私に対して、時間ちょうどに店を閉める店主に絶望感と怒り、自己憐憫を感じていました。と、同時に、舗道の堅さや、排気ガスの悪臭、ガラスのザラザラ感など実感できる物理的な感覚も伴っていました。こうしたことは彼の疎外感や、私が彼から感じ取れる断絶感を含めたこれまで話し合われたテーマが象徴的にあらわされていたと言えます。
それから留守番電話の音、封筒に貼っていた新しい切手、手動のタイプライターで打たれていた宛名と住所、などが立ち現れ、それらに付随する生き生きとした感覚や実感を私は体験するようになりました。そして、Lさんが数ヵ月前に語っていたフレーズを想起しました。Lさんは「先生のことを身近に感じるのは正しそうなことを言う時ではなく、先生が間違った時や、物事を間違って受け取る時です」と言っていました。私は数ヵ月越しにようやくLさんの言っていたことを理解しました。我々が人間的でパーソナルなことを求めていた時に感じていた絶望的な感情がようやく描き出せるようになりました。また、彼は、正しいが情緒性の欠けた関係性が母親との間であり、彼はその母親を「脳が死んでいる」と評していました。
私は彼にタイムカードのメタファーを用いながら、<私とのセッションに希望が見いだせず、窒息しているように感じていたのだろう>と伝えました。彼は肯定し、「診察室が暑かったり寒かったりするけど、それを先生に言うことなんて頭に思い浮かびませんでした。今になって思うのは、そういう感じを感じていたこと自体、よく分かってなかったのかもしれません。感じていることさえ分からなかったということが理解できて、本当にがっかりしました」と述べました。そして、最後にはLさんには珍しく沈黙していました。その沈黙はのどかで、ほっとできるものになっていました。
次のセッションで彼は夢を報告しました。「水の中にいて、息を殺していたが、息を止めておけなくなると溺れてしまうことに気付き、パニックになりました。水の中で息をしている男の一人が、息をしても大丈夫、と言った。それで注意深く息をしてみると、息ができました。水の中にいるけれど、場面がかわり、私はむせび泣いていて、深い悲しみを感じていました。顔の分からない一人の友達が私を元気づけたり、励ましたりしてくれ、そのことに感謝を伝えました」という夢でした。彼は夢から覚めた時、涙を流す寸前だったようです。彼は何を悲しんでいるのか分からないけど、今感じているものを感じていたいということだけのためにベッドから起き出したと語りました。
(2)盗まれた手紙の症例の考察
この素材では、精神分析家の体験が、精神分析家と被分析者によって創りだされる間主体的体験によってどのようにコンテクストを与えられるかを描き出しています。この出来事を逆転移の観点から考えることもできるかもしれませんが、この言葉を使うと、精神分析的な関係性の基礎を作っている個人の主体性と間主体性の弁証法における同時性が曖昧なものになってしまいます。
さて、この症例の最初の素材では封筒の存在に私が気付くことから始まっています。これは抑圧から解放されたことを意味しているのではなく、私とLさんによって新しい主体、分析の第三主体が産みだされていて、その結果、封筒が「分析の対象」として創り出されたと理解できます。そして、人間的な関わりが無くなることに対する失望というコンテクストによってこの体験が浮き彫りにされたのでしょう。同様に、郵便袋のイメージ、蜘蛛の卵のサック、ネズミのテンプルトンなどの無数の断片的な連想、また修理屋についてのもの思いも分析の第三主体と言えます。以前には存在しなかった異なった形で創り出された体験です。これは過去と現在の先端のところで起こっており、2人の人の間に産みだされたある体験によって新たに作り出された1つの過去を伴うものなのです。
このプロセスの中で、過去に話された体験が、別のヴァージョンとして再度立ち現れ、別の意味が付与されました。言い換えるなら、過去の話であって過去の話ではなく、新しい話となっているのです。同じものではあるけど、同じものではなく、違うものではあるけど、違うものではないのです。
そして、こうして起こった変化によって、非人間的な何かを新しい形で体験するようになりました。タイムカードのメタファーも意識して用いたものではありません。分析の第三主体を反映しているといえます。そして、同時に精神分析家の立場として分析の第三主体について話しをしているのです。
最後の夢についてですが、Lさんの私に対する怒りと同性愛的な感情と、その両方に対する恐怖と不安が主に表されています。これは以前から時折表れていた素材ではありますが、分析の対象としては使用できなかったのです。しかし、このセッションの体験によって分析の対象へと変化したといえるでしょう。
分析の第三主体の中での体験と、分析の第三主体という体験によって個人的なものは変化をしていきます。それは精神分析家もセッションの中で刻一刻と変化していくということです。このことも分析のプロセスに関わらせていくことは相当な心理的苦労をしなければならないことなのだと私は考えます。
(3)症例 秘密をもらしてくれた心臓
ここで取り上げる症例は42歳の女性Bさんです。彼女は弁護士をしており、既婚者で、2人の子どもの母親でもあります。また、原家族には高齢の両親がいますが、兄弟姉妹はおらず、一人っ子です。父親はアカデミックな人であり、母親はその父親を邪魔しないように、子どもである彼女をないがしろにするような人でした。
彼女との精神分析の最初の1年間は不毛で、落ち着きのない感じにさせるものでした。精神分析の2年目の終わり頃には徐々に沈黙が増えてきました。彼女はそのことについて何度も私に謝り、私をがっかりさせているのではないかと心配していました。そうしたこともあり、精神分析空間は消耗感と絶望感に埋め尽くされていきました。この時期には彼女は手遊びをすることがあり、それは非常に強いもので、手が赤く腫れあがるほどのものでした。同時に私の空想や連想は非常に貧困になっていました。
そのような時期に私は彼女の下の名前を思い出すことができないということが起こりました。また、この時期に流行病にかかりましたが、全ての患者とのセッションは続行しました。さらにその次の数週間には、Bさんとのセッションだけに体調不良が出現していました。私は自分自身が酷く老いたように感じられていました。一方で、この空想にふけっていることに何らかの安堵感も含まれていました。私は彼女とのセッションに不安や苦痛があったようで、雑事をすることで1分ほど遅らせてセッション開始することが続いていました。この時期には、彼女は母親としての価値、被分析者としての価値に懐疑的になっているようでした。
あるセッションの中で私は水を飲むため、椅子の上で身体を伸ばしました。コップに手を伸ばしたちょうどその瞬間に彼女はカウチの上で身体の向きを変え、私の方を見ました。私ははっとしました。その彼女はパニックになっている様子で、「先生に何が起こっているのか分からなかったのです」と言いました。私はこれまで私自身が抱えてきた恐怖を言葉にできなかったのですが、この破滅的な感じがするこの瞬間の緊迫感の中で言葉にできるようになりました。私の体調不良が彼女によって引き起こされ、脳腫瘍でこのまま死んでしまうかもしれないと情緒的にへとへとにさせられ、彼女に殺されるのではないかという空想を抱いていたことに理解が至りました。私は彼女に<あなたは何か恐ろしいことが私に起こりつつあって、私が死んでしまうことさえあるかもしれないと、恐れ続けていたのだと思えるのだけど>と伝えました。彼女は私の解釈を「ばかげているけれど」と言いつつ、肯定しました。我々は二人とも別の形ではありますが、何か破滅的なことが起こりつつあることを恐れていたようでした。こうしたことは、精神分析家である私は、彼女の妄想的不安と感覚体験と共同して、私の身体的妄想を新たな形で創り出していたようでした。
私は彼女に、<あなたが原因となって私が死んでしまうことを恐れているようだ。子どもをダメにしてしまうことを恐れて医者に連れて行ったように、私をひどい病気にしたので死んでしまうだろうと心配しているのだろう>と伝えました。彼女の手遊びは治まっていました。そして、彼女は「私たちが話し合っていることはとても大事なことで本物に思えるけど、これを忘れてしまうことが心配です」と応答しました。私は彼女の下の名前を忘れてしまったことと、自分の子どもの誕生を認めることができない母親になってしまっていることを空想しました。これは我々が共有する不安を反映するものであったようです。その不安とは、本当の意味で生きて存在するようになると、我々双方に重大な危険が引き起こされるだろうという不安です。彼女が生命を持つようになるためには私が病気になり、死んでしまうだろうという空想をお互いに持っていたのです。この誕生と死が起こらないようにするために我々は様々な試みをしていたのかもしれません。
彼女はこうしたことから幼少期のことを想起し、「物心ついてからずっと持ち続けてきた感情と似ています」と述べました。彼女の母親は父親の邪魔にならないように、全てのおもちゃを彼女の部屋に押し込めていました。家庭は子どもである彼女のための場所とは感じられなかったのでした。彼女は精神分析の場で大人のようにふるまい、幼児的な欲望や感情を散らかさないようにしていました。彼女は私に助けを求めたいニーズと、一方で助けを求めると私を枯れ果てさせてしまい、殺してしまうという不安に引き裂かれていました。私は自身が脳腫瘍ではないかという空想を持っていましたが、これは彼女が貪欲に、わがままに、破壊的に占有しようする無意識の空想を反映するものだったように思います。
また、これまでの彼女との精神分析プロセスで、私は過度に私の訓練分析家に同一化していました。私が精神分析家として独り立ちするためには、内的対象である訓練分析家の死=父親の死という代償を支払わねばなりませんでした。私自身が老いている空想は私自身の訓練分析家=父親になっているという安全感と、彼を殺して自由になりたいという願望とが混在していました。こうしたことは、Bさんとの精神分析の中で、分離と喪の体験を形作っていたといえるでしょう。
(4)分析の第三主体という概念について
精神分析のプロセスは、精神分析家、被分析者、そして分析の第三主体の3つの主体性の相互作用であると言えます。分析の第三主体は精神分析家と被分析者が創り出すものですが、同時に、精神分析家と被分析者はこの分析の第三主体によって創り出されるものなのです。
分析の第三主体は残り2人の歴史とコンテクストの中でそれぞれが体験することなので、共同で創り出されたものであったとしても、各々にとって同一のものではありません。また、分析の第三主体は、精神分析家と被分析者のそれぞれの役割によって規定され、精神分析設定の中で産み出されるものなので、非対称的な構造にもなっています。このことは、結果的に被分析者の無意識的な体験の方が特定の様式で特典をもつこととなります。つまり、精神分析のペアで受け取られるものは、被分析者の方の過去と現在の体験です。これは被分析者の理解のための方法と媒介として用いられるということです。決して、相互に恩恵のある民主的なプロセスではありません。
分析の第三主体という概念は、転移・逆転移における相互性に一つの枠組みを与えるものです。この枠組みは、精神分析家の自己陶酔的な心のさまよいであったとしても、関連のなさそうな身体感覚であったとしても、精神分析のペアによって間主体的に生み出される分析の対象であったとしても、精神分析家が出会う様々な間主体的な臨床的な出来事に注意を向け、はっきりと考えようとする助けになるものなのです。
2.オグデンの生涯
1946年にアメリカで出生。ユダヤ人の両親の他に2歳下の弟がいます。また、母親は彼が2~7歳の間に精神分析か精神療法などを受けていたようです。それはセラピストの死去により、終了したとのことです。彼は高校の時には既にフロイトの著作に触れていたようです。アマースト大学教養学部を卒業後、イエール大学医学部に入り直し、27歳(1973年)で卒業しました。30歳(1976年)の時に研修医を終え、ロンドンのタビストッククリニックに1年留学しました。
その後、米国に帰国し、32歳(1978年)の時に精神分析のトレーニングを開始しました。この時のスーパーバイザーはクライン派のグロットスタインですが、オグデン自身はクライン派にはならなかったようです。また、訓練分析家は明らかにされていません。33歳(1979年)の時には有名な「投影同一化について」という論文を発表しました。40歳(1986年)の時に精神分析家の資格を取得しました。いくつかの機関で仕事をしたこともありますが、本業はカリフォルニアでの個人開業です。現在ではときおり分析協会で教鞭を取ることもありますが、ほんの一部のようです。
また論文の執筆は精力的に行っていますが、学術大会に出席することは稀のようです。58歳(2004年)で国際精神分析学雑誌の論文賞を、64歳(2010年)にハスケルノーマン賞を受賞しました。2022年現在では、76歳になり、今も精力的に臨床と執筆を行っています。家族は妻サンドラと2人の息子がいるようです。その内の一人ベンジャミンは文芸評論家のようです。また、2016年に母親は94歳で死去しています。
3.解釈の重要性の位置づけについて
2つの症例で示されたことは転移と逆転移という文脈から理解し、解釈することは可能であると思います。しかし、そのような理解と解釈では部分的だが、決定的に何かが欠けているように私には感じてしまいます。その欠けた部分というのが、このオグデンの分析の第三主体なのかもしれません。精神分析プロセスを進めるものは何なのでしょうか。我々の力の及ばない何かがプロセスに作用していると感じられることはあります。それを超常的で、スピリチュアル的なものとしてしまうのは安易でしょう。精神分析的な仕事をしていくことが、この他の何かを作動させる契機になるようです。
しかし、そうすると我々が日々行っている設定を維持し、連想をし、解釈するという営みは特権的な位置から滑り落ちてしまう、とも考えられます。なぜなら、プロセスを動かすのは3つの主体の相互作用なのですから。ただ、そういってしまうのも早計ではないかとも頭をよぎります。私の頭をよぎるのは、設定を維持し、連想をし、解釈するという営みがあってこそ、分析の第三主体が立ち現れるのではないか、ということです。そうであったとするなら設定の維持、連想、解釈は重要であることには違いはありませんが、その役割や機能が相当異なってくるということでしょう。純血なクライン派がいうように、解釈こそが変化をもたらしうる、と単純にはいうことができないでしょう。
4.精神分析家のもの思いについて
オグデンは精神分析プロセスの中の個人的な空想や白昼夢に分析の第三主体という意味を付与しました。つまり、精神分析家が見る白昼夢や夢が患者の理解に役立つということです。これはかつてゴミと思われていたものが、リサイクルされ、活用されるということです。しかし、こうしたことが万人に、特に精神分析を受けていない我々に真似ができることなのだろうか、と思います。
おそらく、研究会などの事例発表や、事例研究、論文などでオグデンのような症例提示をすれば、一蹴されてしまうでしょう。精神分析を受けること以外に、こうしたゴミをリサイクルできるような何かがあるのでしょうか。
5.症例提示の美しさと本質について
また、オグデンの症例提示は非常に美しく、胸をうちます。私が過去にボラスの症例を読み、涙がこぼれ落ちそうになったことに匹敵するように思います。ボラスの審美的体験やメルツァーの美的対象を、理論ではなく、実践で提示しているように私には思えました。この美しさに魅了されてしまうのも分かるように思います。
ただ、一方で、ひねくれた考えも沸くのですが、この美しさに誤魔化され、オグデンの理論や理解の枠組みが正しいことである、と無批判的に取り入れてしまいそうにもなります。フロイトが我々に今日までに知的刺激を与え続けているのは、おそらく文章の美しさではなく、何か本質的なものを提示しているからに思えます。オグデンの文章が本質的な何かに触れているようにも思いますが、どこか文章の美しさに視線誘導されているのではないかという妄想も沸きます。スポーツカーやF1がなぜ美しいのかは、フォルムの美しさもありますが、そのエンジン、タイヤ、シャーシなどの性能などに美を感じます。フォルムだけが美しくても、中身がファミリーカーでは魅力はありません。
オグデンの症例をいくつか読みましたが、いずれも健康度が高く、機能水準がそれなりに維持されているケースが多かったように思います。病態の重たいケースでしか人間の内奥の根源的な本質に触れることができない、とまでは思いません。しかし、そうした病態の重たいケースだからこそ、分かってくるものはあるように思います。その点、クライン派やポストクライン派はそうしたケースに果敢に関わり、その中で強く突きつけられる苦痛さを分析し、理論化していきました。そうしたシビアさがオグデンにはあるのでしょうか。
6.投影同一化について
投影同一化はクラインが最初に提起した概念です。クラインはこの投影同一化は個体内の空想として理解しました。つまり、そこには相互交流という視点はありません。しかし、その後、ビオンはもの思いという観点から、心の交流という視点から投影同一化を位置づけました。さらにローゼンフェルドは治療者の体験は投影同一化によってもたらされるので、それを解釈として利用可能であることを示しました。
その上でオグデンはクライン派とは違った文脈でこの投影同一化を提起しました。オグデンは投影同一化を3つの相に整理しました。
- 主体のこころの一部を受け手に預ける幻想
- 受け手が投げ込まれた心的側面に一致した体験をもつような対人的相互作用
- その体験の受け手による修正と主体による再内在化
つまり投影同一化とは内界の幻想であると同時に、外界の対人関係の両面を含むものであると理解ができます。さらには、この投影同一化が二者間のものではなく、第三主体を含めた三者間で起こるものであるともオグデンは述べています。
7.終わりに
オグデンの論文「分析の第三主体-間主体の臨床を考える」の要約と、それに対する解説を少し書きました。オグデンの臨床は非常に美しく、心を打つものがあります。こうした分析臨床がすぐに行えるものではありませんが、それに向かって訓練を積んでいく必要はあります。
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文献
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