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性理論のための三編

S,フロイトの1905年の論文「性理論のための三編」についての要約です。性欲動や小児性欲、性倒錯などの性に関する考察を行い、精神分析の基礎をここで築いています。

1.性理論のための三編の背景

本書は「夢解釈(1900)」と並んで、フロイトの最も記念碑的で独創的な人類の英知への貢献である。初版刊行以来20年以上にわたって本書は、フロイトのどの著作にもまして文章の変更・追加がなされてきた。フロイトが性欲を研究しなければならないと思ったのは、精神神経症などの原因としての性的要因の重要性について臨床的観察を得たことによる。

1896年のフリース宛書簡の中では、フリースから示唆を受けていた「両性性」を決定的なものと書いている。また同じ書簡の中には「性源域」「倒錯」といった表現が初めて出てきている。つまりフロイトの性理論に関する多くの要素が1896年までに出揃っていたわけだが、その礎石となる原理がまだ発見されていなかった。

非常に早い時期からヒステリーの原因となる要因が幼児期にまで遡るという予想はあった。しかし誘惑理論の放棄・自己分析を通じてのエディプスコンプレックスの発見の後になって、外的刺激なしに幼児においても性的衝動は生じるという理解に達したことで、1901年の時点ではフロイトの性理論は大枠としてすでに出来上がっていたと言える。

この論文の意義は従来の伝統的な性の概念を覆し、性概念を拡張してその重要性を強調したこと、性欲動に幼児期からの発達的観点を導入したことにある。

大衆は本書を読んで騒ぎ立て、ジョーンズによれば、フロイトを「どこでも不評」にした。以後フロイトは、猥褻で有害な人物と見なされる。確かにフロイトは、倒錯についての道徳的判断を拒んで倫理を転倒させて、大きな危険を犯している。だがフロイトは批判に耳を貸さず、科学的な認識が蒙昧主義を打ち負かすことを、前にも増して決意する。

2.性的異常

性の欲求があるという事実を「性欲動」(「心的」と「身体的」との間に位置)を想定し表現する。「リビード」はその心的な面を表現。

「性欲動」の通俗的見解(子どもの頃には存在せず思春期になり発現・対象は異性・目標は性交)は不正確・不十分。性対象と性目標という用語を導入し、数多くの逸脱と想定された正常規範との関係を明らかにする。

(1)性対象に関する逸脱

a.対象倒錯

対象倒錯者はその振る舞いによって、絶対的対象倒錯者、両性的対象倒錯者、機会的対象倒錯者、の3つに分類されるが、このほかに時間的応じたバリエーションがある。

対象倒錯に関する変質説・先天説・後天説の検討している。当時優勢だった変質学説(人類の「正常型」からの病的な偏りをすべて「変質」とし、「変質」は遺伝し世代を重ねるごとに進行し、やがて絶滅する。)は病理学的にも人類学的にも対象倒錯には妥当しない。先天性という特徴は上記と合致しない。対象倒錯を促進する外的影響を後天的に受けても対象倒錯を呈しない人々は数多い。

「両性性」の導入。解剖学の世界では性の決定が困難なケース(両性具有・半陰陽)が存在する。そして解剖学上の両性具有は一定程度なら正常。はじめに両性性という素質があり、発達の中でそれがどちらか一方の性に変化し、もう一方の萎縮した性は残渣をとどめる、という理解が生まれる。しかし解剖学上の半陰陽と対象倒錯は無関係。また第二次および第三次性別特徴がかなりの頻度で反対の性にもあらわれるが、性対象まで変わることはない。以上から却下できない考えとして、両性性の素質と性欲動の発達上の障害がある。

対象倒錯者の性対象心的な両性具有に関する理論では対象倒錯者の性対象が正常な性対象と相反すると前提されている。そしてこれが妥当する者も多いが、規模は多彩であり、一般的特徴ではない。女装した男娼を求める男性、古代ギリシアの少年愛好者。これらは両方の性別が合わせられており、自身の両性性が対象に投影されている。

1910年の追加では、後年対象倒錯者となったものは幼年期はじめに非常に強い女性への固着の時期があり、自分をその女性と同一化し自らを性対象として選ぶ。1915年の追加では、あらゆる人間は自分と同じ性の性対象を選択することができるのであり、そういった選択を無意識にも行っていた。対象の性別に左右されない対象選択の方が根源的であり、ここからある方向に向かえば正常型のタイプが、別の方向に向かえば対象倒錯のタイプが発達する。

結論として達することができた一つの洞察は、異常と見なされるケースの経験から、性欲動と性対象との間は「はんだ付け・ろう付け」のようになっている。性欲動は、はじめはその対象と無関係なものである。

b.性対象としての性的未成熟者および動物

精神病とは関係がない。ふさわしい対象が獲得できない場合に起こりうる。

(2)性目標に関する逸脱

目標倒錯とは、性的結合のために決められている身体領域から解剖学上はみ出してしまうことと、最終的な性目標へ至る途上での中間段階での逗留である。

a.解剖学上のはみ出し

性対象が受けている価値評価は性器から身体全体へ、心的領域にも拡大する。このような性的過大評価は性器以外の身体部位で行われる行為を性目標に高めてしまう。研究できるのは男性の愛情生活だけである。

口唇粘膜および口腔粘膜の性的な利用、肛門開口部の性的な利用、それ以外の身体部位の利用。こういったものに対する嫌悪感こそ、そういった性目標を受け入れないようにしている。このような嫌悪は慣習的なものであり、性目標の範囲を狭く限定する。

性対象の不適切な代用、フェティシズム。足や毛髪などの身体の一部、その人物とつながりのある無生物の対象がフェティッシュとなる。フェティシズムにもさまざまな移行段階があるが、その追求が正常な性目標と置き換わってしまう場合は病的である。

b.性目標の変更

さしあたり立てた性目標の固着正常な性目標の困難が準備段階にある行為を、正常な性目標に置き換えて新しい目標とする。触ること、見ること。これらが中間段階的に逗留することは正常者にもみられる。

サディズムとマゾヒズム。サディズムの概念は、性対象に対して能動的な態度をとるものから、暴力的な態度を示すもの・性対象を屈服させて虐待することにのみ満足をうるものまである。最後のはなはだしいケースだけが目標倒錯に値する。マゾヒズムも性生活・性対象に対するあらゆる受動的な態度を包括する。

最も極端な態度は性対象から加えられる肉体的な苦しみや心の苦しみに満足が結びついたものである。マゾヒズムは自分自身に向いたサディズムである。これら目標倒錯の土台となっている能動と受動の対立は性生活の一般的特徴であり、同一人物の中に二つ揃っている。違いはどちらが強く支配的かである。

(3)あらゆる目標倒錯に共通すること

バリエーションと病気。目標倒錯の中のあまりひどくないものは、健常者の性生活の構成部分であり、事情により正常者でも長期間正常な性目標に代えることができる。しかし病的症状と言えるのは、性欲動がもろもろの抵抗(嫌悪、苦痛など)に打ち克ち、驚くような目標をやってのけたり、占有と固着がある場合である。

二つの成果。羞恥・嫌悪などの抵抗は性欲動を正常とみなされる壁の内側に発達を方向付ける。性欲動は単一のものではなく複数の成分から構成される。

(4)神経症者の性欲動

精神分析は神経症者の性生活の唯一つの解明手段。性欲動のエネルギーこそが神経症の唯一つのエネルギー源泉。ヒステリーにおける抑圧・放散・転換。ヒステリーの特徴として、性への無知・拒絶・抑圧がある一方で大きな性的欲求があり、対立対を確認できる。この対立の間に病気という逃げ道がつくられる。病気を可能にしたのは葛藤の性的成分である。

神経症と目標倒錯。症状は正常な性欲動だけでなく異常な性欲をも犠牲にしてつくられる。神経症はいわば目標倒錯の陰画である。無意識の対象倒錯傾向、解剖学的なはみ出しの傾向、対立対となる部分欲動、の3つが見出せる。

(5)部分欲動と性源域

部分欲動は更に分解できる。欲動を相互に区別するものは身体上の源泉および目標であり、源泉とは器官での興奮過程、目標とは器官刺激の解消である。興奮が欲動に性的特徴をもたせる器官を「性源域」(性感帯)と呼ぶ。窃視ー露出症では眼がひとつの性源域に対応。苦痛を受ける・残虐性を示す性欲動の性源域は皮膚となる。

(6)目標倒錯の優勢

精神神経症においては目標倒錯的な性欲が一見優勢に見えることがある。正常な性生活の抑圧か不満足により、正常な「本筋の川の流れ」はせき止められて目標倒錯傾向という「それまで水の無かった支流」にリビードが流れ込む。「支流の水かさの増した状態」。

(7)性欲をめぐる幼児症

目標倒錯に至る素質はあらゆる人間に共通する生得的なものである。その萌芽はただ子どもだけに示される。もっとも子どもの欲動はほんの控えめな強さでしか現れない。

3.小児の性愛

(1)小児の性欲動

小児に性的欲動は存在する。健忘によって意識から遮断されているだけである。

性的興奮は、いくつかの他の有機的な事象(発表者補足:哺乳、排泄)と関連して経験された満足感の模倣として、性感帯を適当にその末梢を刺激することによって、覗き見の欲望や残忍なことをしてみたい欲動のような、その由来がまだ我々が十分には理解しうるものとなっていない若干の「欲動」の表現として、生じてくる。

小児期の性愛潜在期とその破壊は潜在期において「昇華」「反動形成」となる。

幼児性欲の表出は「性愛的」sexuellと「生殖器的」genitalを区別する。「しゃぶること」も性的満足となる。

小児性愛の性的目標について、小児の性愛は自体愛的である。性的目標は性感帯に支配されている。

手淫による性的表出について、小児の性愛は多形倒錯・部分欲動である。性感帯は口唇、肛門、性器である。そして、部分欲動は覗き見、見せる快感、残忍性となる。

幼児の性探求は去勢コンプレクスとペニス羨望にまつわる。これを孔仮説という。また、性交のサディズム的解釈を行う。これらは小児(男根期の子ども)の抱いている性理論である。

(2)性的体制の発達段階

  1. 性器前的体制(口唇愛・食人的体制/肛門愛・サディズム的体制)
  2. アンビバレンツ(対立する欲動)
  3. 二期に分かれる対象選択
    1. 第一期(2~5歳):部分欲動→潜伏期で休止→
    2. 第二期(思春期):情愛/官能的な

幼児性愛の源泉はリズミカルな動き、筋肉の活動、感動(緊張感・不安・恐怖・戦慄・痛苦をともなう感覚)、知的作業、性的体素質、相互影響の路である。

4.思春期における変態

(1)変遷

自体愛を経て、性対象を見出す。男女に異なった機能を発見する。

新しい性目標について、男性は性の生産物を放出すること(射精)→生殖作用に役立つ。女性については記述なし。

(2)性器領域の主宰と前駆快感

思春期で外性器と内性器の完成し、生殖活動できるようになる。

性的緊張(=不安)と性対象(=美・魅力あるもの)の魅力はすでに快感と結びついている。

最終快感(思春期になって初めてもたらされる)は、前駆快感(幼児期から続く)によって、いっそう大きな充足快感をひきおこす。それがうまくいかない場合は正常な性生活が形成されない。

(3)性的興奮の問題

身体的な要因(性物質の蓄積が性的緊張をつくりだしたり維持したりする)による。

(4)リビドー説

リビドーとは、性的興奮の領域に起こる経過や変化を計ることのできる量的に変化しうる力である。リビドーの生産、増大または減少、配分および移動などが性心理的な現象を解明する。神経症・精神病的障害にリビドー理論を適用できる可能性がある。

(5)男性と女性の分化

小児の自体愛的な状態では性の区別はない。リビドーはいつでも決まって男性的(能動的)である。女性の主導的な性感帯:陰核の興奮→抑圧→陰核から膣の入り口への被刺激性を転移する。

(6)対象の発見

性対象の変遷は、母親の乳房→自体愛→潜在期→対象の再発見である。親子関係がその後の情愛の傾向を決定する。幼児性不安とは、自分の愛している人がいなくなりはしまいか?である。

近親姦のタブーは、性的成熟の猶予を通じて、他の性的抑制とならんで近親姦の制限を確立。近親姦的な空想を克服→両親から離脱する。これがうまくいかないとその後の性関係がうまくいかなくなる。固着をうまく避けられた人でも小児期の親子関係はその後の対象選択に影響する。ヒステリーや性倒錯には、この対象選択の問題が関わっている。

5.発達を阻害する契機

(1)体素質と遺伝

性的な体素質は遺伝する≒性倒錯や神経症は遺伝する。しかし体素質ですべてが決定されるわけではない。その後の経験(ひきつづいての加工)次第ひきつづいての加工(抑圧、昇華)がある。

(2)偶然の体験

体素質+偶発的体験が性生活を形成する。性愛の発達に大きな影響を及ぼす契機は、早熟(自然発生的な性的早熟)、時間的契機である。

性倒錯者や神経症者の心的な要因を明らかにするのは、固執、固着である。

6.議論

フロイトの性理論は身体性と強く結びついた理論である。フロイトは、性概念の拡大によって「生きるとは何か」という命題に取り組んだのだろう。

日々の臨床で出会うクライエントを性理論から理解すると、無気力を主訴とする青年には「対象の再発見」ができない人が多い。社交不安障害の人の「見られている」不安は、幼児的な性欲動「覗き見の快感」と関連しているようだ。

フロイトが検討・批判した「性欲動に対する通俗的見解」は今の日本でも妥当な見解として流通しているように思える。「性欲動と性対象のあいだがはんだ付けのようになっている」として、両者の結びつきを自明視していた見解をフロイトがひっくり返すところは痛快である。フロイトはファルス中心主義として批判されることもあるが、性対象・性目標の正常と異常との橋渡しをする本質的な議論は重要である。

性生活以外の点では全ての点で平均的であるのに性生活だけが異常という人々が多いのである。こういった人々は、そのウィークポイントが性に存する人間文明の発展を、個人的に身をもって体験しているのである。ここからフロイトが、はじめは無関係な性欲動と性対象を性幻想(はんだ付けのはんだ)で媒介し、部分欲動の階梯をのほっていかないと性器結合という目標に達するのが困難ゆえに、人間の性の弱さをとらえている。

性対象・性目標に関する議論は詳細だが、性同一性に関しては「1920年の追加」でフェレンツィの論文に触れて「自分が女であると感じて女として振舞う主体的同性愛者・・・・」という箇所で言及している等、極わずかである。フロイトがこの論文を執筆している当時「性同一性障害」「性別違和」の存在そのものが少なかったためか、それともカミンアウトが少なかったためなのだろう。

7.さいごに

もっと精神分析を知りたいと思った方は以下のページを参照してください。


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