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逆転移のなかの憎しみ

D,W,ウィニコットの1947年の論文「逆転移のなかの憎しみ」についての要約と解説です。精神分析家や治療者が憎しみを持つことをめぐって、臨床的に考察しています。

D,W,ウィニコットの写真

図1 D,W,ウィニコットの写真

A.逆転移のなかの憎しみ(1947)の要約

1.導入

この論文は、逆転移の中の憎しみhateを吟味したものである。精神病者の精神分析では、精神分析家は憎しみを持つ。憎しみを上手く解決され意識されていないと、精神病者の精神分析は不可能。精神科医や精神科看護者は、正気でない患者の世話をする。そのため情緒的な重荷となる。

この論文は精神科医の助けとなるはず。精神科医がどんなに自分の患者を愛していても、患者を憎んだり恐れたりすることは避けられない。自覚があるほど、憎しみや恐れが患者への介入を左右する動機となることは少なくなる。

2.逆転移

  1. 逆転移感情の異常、一組の関係や同一化として精神分析家の中で抑圧されているもの(精神分析される必要がある)
  2. 精神分析家の個人的な体験と発達とに属する同一化と諸傾向。精神分析的な仕事をするためのポジティブな状況を作ることに寄与し、他の精神分析家との質的な違いをもたらす
  3. 1と2とは区別される客観的な逆転移。区別が難しければ、患者の人格や行動に対する精神分析家の愛と憎しみのことであり、それは客観的な観察に基づいているもの

精神病者や反社会的傾向の人を対象として精神分析をする場合、患者に対する客観的な反応を整理しなければならないし、それは憎しみを含むであろう

3.精神病者の同時発生的な愛と憎しみ

患者は、患者自身が感じることが出来るものを、かろうじて精神分析家の中に見出すだけ(例えば、強迫的な患者は、精神分析家を“無益で強迫的なやり方で仕事をする人”と考えやすい、等)。精神病者の場合、“同時発生的な愛と憎しみ”の感情状態にいるとすれば、患者は、精神分析家も同様であると捉えるのではないか?「そこで精神分析家が愛を示すなら、同時にその精神分析家はきっと患者を殺すことになるのだろう」

愛と憎しみの同時発生は、精神病者の精神分析では特徴的に繰り返され、マネジメント上の問題を引き起こす。精神病者の愛と憎しみの同時発生は、原初的な発達の愛と攻撃の問題とは異なり、人生で最初に対象を発見する本能衝動が生じた時に環境の失敗があったことを意味する。

4.精神分析家の抱く憎しみ

精神分析家は、自分が生々しい感情を負わされることを請け負うつもりならば、前もって注意し備えることが最善。自分の中にある憎しみを否認してはならないし、自覚され整理され保管されて、いつか行う解釈の材料として使えるようにしなくてはならない(自分自身の精神分析も必要)

精神分析家の主な仕事は、患者の持ち込む全てのものに関心を示し、客観性を維持すること。こういった仕事が中心だが、特別な例として、患者を「客観的に憎むことができねばならないという精神分析家側の必要性」

精神分析家の憎しみが正当化される状況は多くはない。嫌いな患者との精神分析の中で、“彼に拒絶されると感じてきたけれども、そのことを彼(患者)に知らせるには、彼(患者)があまりにも病気であったということを、患者に話すことが出来た”例。ウィニコットにとっても患者にとっても重要な日となり、患者は進歩を見せた。

精神分析家は、過去や内的な葛藤に属する憎しみから自由になっていることが必要。憎しみが表現されなかったり否認されたりする理由には、次のようなものがある。

  • 精神分析は自分の選んだ仕事で、自分の罪悪感を処理する方法であり、建設的に自分を表現出来る方法
  • お金を得ている、あるいは、地位を得るための訓練中である
  • 物事を解明しつつある
  • 自分は報酬を得ているし、患者は進歩しているし、自分は治療終了後にますます大きな報酬を見出すことが出来る
  • 精神分析家は面接時間に終わりが存在することで憎しみを表現出来る
  • 精神分析家は、患者が幼児だった時に汚れる仕事をしていた人々の成功を活用して設ける 等々(これらは、主として神経症的な患者との精神分析に関連していること)

5.精神分析家の抱く憎しみ(精神病者との精神分析において)

精神病者との精神分析では、上記とは全く異なる形式と程度の重圧が精神分析家に担われる。

(1)ウィニコットの「まずい仕事」の例

精神病的な女性との精神分析中に「私に要求していることは、ほとんど枝葉末節にこだわることに過ぎない」と言ってしまった(この場面では失策)。夜に、天井桟敷にいて、1階席の人々が芝居を見ていることに気付き、不安になった(自分の身体の右側がない)夢を見た。<夢の理解>患者には「自分のものとして認識される身体がなく~彼女が私に要求していたのは、私が彼女の心に単に心だけで話しかけること」であった。

彼女の身体に関わろうとすると、身体の右側がなくなってしまう夢を見たが、それは、(phantasyとしての)身体の関係を否認しようとする患者のニードに影響されているもの、という無意識的交流の理解。患者のニードに反応して、ウィニコットが精神病的な性質の不安を引き起こし、それを容認し難く、苛立って失策をしたという理解に繋がった。

精神分析家には、長い期間、自分のしていることに対する理解を患者に期待せず、重圧に耐える覚悟が必要。そのために、自分の恐怖や憎しみに抵抗なく気付けるようになっていなければならない。

最後には、精神分析の中で精神分析家が経験していることについて、何を経験しているかを患者に話さなければならない。ただし、そこまで精神分析が到達出来ないこともある.患者の過去にあまりにも良い体験が少ない、転移の中で利用する早期乳幼児期の満足な関係がない、等。精神分析家が、患者の生活に一定の環境の不可欠物を初めて供給するような場合、神経症的な患者にとっては当然のようなことが、大きな意味を持つ。

例えば、神経症者では、寝椅子・暖かさ・心地よさは母親の愛情の象徴となるが、精神病者では、寝椅子は精神分析家の膝や子宮そのものに近いものとして体験される。部屋の暗さ・明るさの持つ意味の違い。

精神分析家の憎しみが患者から実際に求められるが、そこで求められるのは「客観的に存在する憎しみである」。例えば、崩壊家庭の子どもが家庭に引き取られる。養子となった子どもが、新しい家庭を徹底的にtestingする。そして、保護者がその子どもを憎む能力があるかどうかを確認する。子どもは、憎まれることに達してから、初めて愛されることを信じられる。

(2)反社会的な少年の例

第二次世界大戦中、ずる休みという理由で疎開児童の収容施設に送られて来た9歳の少年。6歳から、家庭・他から逃げ出すことを繰り返して来たのと同様、治療から(?施設から?)も逃げ出した。少年は逃げ出すことで、無意識的には、迫害的なこころ故に母親を攻撃してしまうことから母親を保護した、と理解出来るし、それを解釈した。ウィニコットの自宅近くの警察署で少年が保護され、ウィニコットと妻は3ヶ月間少年を預かった。

少年は最高に愛嬌があり、最高に腹の立つ子ども。少年が出て行くときに、自由と電話代を与え、逃げた少年は電話をかけ、ウィニコットらは警察署に連れ戻しに行くことが繰り返された。そのうち、逃げることで“母親”を保護するあり方から、「内側への攻撃を劇化し始めた」。特にウィニコットが留守の間に少年は最悪のことを起こし、ウィニコットは何かあると昼夜を問わず少年に解釈。少年は、正しい解釈を評価した。

このような少年のパーソナリティの変化が、ウィニコットの中に憎しみを引き起こした。ウィニコットは憎しみについての理解があったので、悪いことをした少年を殴らず、外に追い出し、呼び鈴を押して少年が再び入ってきても過ぎたことについては何も言わなかった。重要なのは、「こういうことが起こると、それが私に少年を憎ませることになるのだと話した」こと。

少年にとっては進歩となり、ウィニコットにとっては、「手綱を緩めることなく、堪忍袋の緒を切ることなく~少年を殺してしまうこともなく、私がその状況を容認するために重要だった」(少年の行動によってウィニコットの憎しみが引き出された、と理解される)

上述の少年との関係と同様、精神分析家-精神病者との関係や母親-赤ん坊の関係においても、赤ん坊(患者)が母親(精神分析家)を憎む前に、あるいは、母親(精神分析家)が自分を憎んでいるということを赤ん坊(患者)が知る前に、母親(精神分析家)が赤ん坊(患者)を憎む。

6.母親(精神分析家)が赤ん坊(患者)を憎むことに関する考察

(1)Freud,S.(1915) 「欲動と欲動運命」

「満足を得るという目的のために、本能は対象を努力して求め、これを“愛する”。しかし、本能が対象を“憎む”というのは、われわれに奇異な感じを与える。したがって、愛と憎しみの態度は、その対象に対する本能の関係を特徴付けるとは言えないが、全体としての自我と対象との関係のために取って置かれている~」

上記の言葉は以下の「欲動と欲動運命」からの引用です。

Freud,S.の記述について、「乳幼児が憎んでいると言える前に、人格が統合されるはずである」ということを意味しているのではないか?すなわち、乳幼児の興奮や激怒は、憎しみの中で行われるのではないのではないか?(興奮や激怒に対して、母親/精神分析家が憎しみを引き出され、それが投げ返されていく過程がないと、乳幼児の中に“憎しみ”という概念が出来ない)→この段階を「無慈悲な愛ruthless love」としてきたが、これは受け入れられるであろうか?

母親ははじめから乳児を憎むもの。Freud、S.は、母親が男の子に対しては愛だけを抱くと考えたように思えるが、それに対しては疑問が残る(根拠はp238に列挙)

(2)精神分析家は、赤ん坊の母親と同じ憎しみを体験する

母親(精神分析家)は、赤ん坊(患者)を憎むことを容認出来なければならない。母親(精神分析家)は、赤ん坊(患者)に傷つけられた時に、報復してしまうかもしれないという恐れのために、適切に憎むことが出来ないと、尻込みしてマゾヒズムに頼らなければならなくなる。母親(精神分析家)の注目すべき点は、“大いに傷つけられながら、子どもに報復しないで大いに憎むことが出来る能力、後日あるかもしれないし、ないかもしれない報酬を待つ能力”である。

子どもが発達するにつれて、自分自身の中の憎しみを容認出来るようになっていくが、そのためには、「憎むための憎しみ」が必要。

患者に対する憎しみを精神分析家が解釈することについて。注意深く配慮されたタイミングで行わなければならない(根気と耐性が必要)。精神分析家の見解に患者が同一化する能力がないこともあるし、患者が生々しい愛し方でなす事柄によって精神分析家の中に憎しみが生まれる場合があることを患者は理解出来ないこともあるので、タイミングを見計らうことが必要。

より精神病的な患者の治療においては、治療者側に憎しみが生じることについて学ぶことが重要。それによって、治療者側のニーズに適応するような治療をしてしまうことが避けられる、というような何らかの希望が持てる。

B.逆転移のなかの憎しみ(1947)の解説

1.ウィニコットの生涯

1896年4月7日にイギリスのプリマスで出生。3人兄弟の末弟であり、6歳上と5歳上の姉がいた。父の職業は商人であり、のちにプリマス市長となり、ナイトの称号を得ている。母親に関しては残されている情報は少ないが、抑うつ的な人物であったと言われている。ウィニコットの家庭は裕福であり、幼少期は女性に囲まれた生活をしていた。

1910年(14歳)には寄宿学校に入った。16歳の時に鎖骨の骨折をしたことから医師になることを志すようになった。その後、ケンブリッジ大学で生物学を学び、この時期にダーウィンの進化論に強く影響を受けていたようだった。その後、医学部に進学したが、この頃に第一次世界大戦が勃発した。彼は海軍を志願し、外科医見習いとして駆逐艦で働いていた。第一次世界大戦が終了してからは、聖バーソロミュー病院で医学の勉強を再開し、1920年に医師資格を取得した。

1923年からパディントン・グリーン病院小児科に勤務することになり、ここではそれから40年間も勤めることとなった。また、同年にアリス・テイラーと結婚した。アリスはモーズレイ病院に勤務していた陶芸家であり、オペラ歌手でもあった。彼女は精神的に不安定で、彼らの結婚生活は最初からうまく行ってなかったようであった。彼女が不調の時にはウィニコットは献身的に介護していたようであった。

さらに、その同年には治療としての精神分析を受けるためアーネスト・ジョーンズに相談し、ストレイチーを紹介された。ウィニコットは夢を見ることができないことと性的不能の問題を抱えていた。ストレイチーとの精神分析はそれから10年続いた。翌年の1924年にはハーレイ街にオフィスを構え、開業するに至った。1927年に英国精神分析協会の訓練生になり、1935年には論文「躁的防衛」を書いて、精神分析家の資格を取得した。

その同年にクラインの精神分析を申し込んだが、クラインには断られ、その代わりに、クラインの息子(エリック)の精神分析を依頼され、さらにその精神分析のスーパービジョンを提案された。ウィニコットはエリックの精神分析は受諾したが、スーパービジョンは別のケースにしたようであった。そのスーパービジョンは1940年まで続いた。

また、1936年からはリビエールから精神分析を受けるようになり、1941年まで続いたが、内的世界にばかり関心を示すリビエールにウィニコットはこの精神分析は失敗だったと考えていた。

1941年にオックスフォードにある疎開児童グループホームのコンサルテーションの仕事をするようになり、その時に後に再婚することとなったクレアと出会い、不倫関係となった。1948年に父が亡くなり、ウィニコットはアリスと離婚し、そして1951年にクレアと再婚した。また、同年には論文「移行対象と移行現象」を発表し、クラインから破門されてしまった。クラインから距離を取りつつも、英国精神分析協会のなかでクライン・アンナフロイト論争をおさめるために動き、また協会の会長を2回務めた。

ちなみに、ウィニコットは、被分析者であったマシュード・カーンの倫理違反行為(患者との性交渉、訓練生へのハラスメント、公共の場での迷惑行為、アルコール依存症など)をかばい、訓練分析家に推したこともあった。また、ウィニコット自身も境界侵犯(患者との身体接触、私的交流など)をしていたこともあり、倫理的な問題を抱えているところも見られる。

50歳代より身体的な健康が損なわれることが増え、心臓発作を3回も繰り返したりしていた。1968年にニューヨーク精神分析協会での講演が不調に終わり、彼は非常にショックを受けていたようであった。その後、1971年1月22日に71歳で病死した。

ウィニコットの生い立ち・生涯については下記の「母親の抑うつに対して組織された防衛という観点から見た償い(1948)」からの転載。

2.論文の背景

精神分析の中で逆転移の治療的活用性が取り上げられるようになったのは,1949年にハイマンの論文(逆転移について)が発表されてからであり,「逆転移のなかの憎しみ」はその先駆けとも言える。子どもの治療者として有名なウィニコットであるが,成人の精神分析は境界例から精神病の患者が多く,その中で思慮されてきたものを収めた論文の1つであろう。

「母親の抑うつに対して組織化された防衛の観点から見た償い」(1948)は,クラインからの独立宣言のような意味合いがあると言われているが,「逆転移のなかの憎しみ」も同様の意味合いがあると言われている(クラインは逆転移の治療的活用に関しては慎重であったが,この論文は“憎しみ”という逆転移は当然のものとして,治療者が憎しみに開かれておくことの重要性を述べている。

ちなみに,ハイマンは「逆転移について」(治療者が経験する感情の全てを逆転移とし,それを無意識を探るツールとする,という主張)を発表し,クライン派を離脱している)。

3.ウィニコットの発達論

(1)絶対的依存

乳児の万能的な世界/母親の原初的没頭

→母親と乳児のユニット

現実と空想が同一のもの

→錯覚

ほどよい母親、環境としての母親、ホールディング

この時期の急激な侵襲は、乳児に破滅的な不安を引き起こす。

(2)相対的依存

乳児のニーズが万能的に満たされない事態が出現する

→母親の適度な失敗

移行対象と移行現象

対象が生き残る/対象の使用

心理的な離乳が果たされ、一人でいられる能力を獲得していく。

憎しみと愛という両価的感情を感じることができることが、乳児が思いやりの段階に達していると理解できる。

4.ウィニコットの逆転移論

(1)憎しみは誰のものなのか

クライン派であれば、憎しみは乳児のものであり、もし精神分析家が憎しみを感じているのだとすれば、それは乳児の投影同一化により押し付けられた憎しみであると理解するだろう。

ウィニコットは憎しみは精神分析家に属するものであるとしている。そして、それを解釈として活用することにも言及しているが、同時に精神分析家が克服すべきものとしても位置付けている。そういう意味では、ハイマンの逆転移論以前の古典的なものとして理解できる。

(2)精神分析家の失敗

患者の最早期の養育の失敗状況が、精神分析状況における逆転移や失敗として表れている。

(3)治療者の肯定的な気持ち

優しさや好意などの治療者が肯定的な気持ちを抱くことに強迫的にこだわらなくても良いということを明らかにした。

5.おわりに

このような精神分析についてさらに学びたいという人は以下をご参照ください。

6.文献

この記事は以下の文献を参考にして執筆いたしました。