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一人でいられる能力

孤独を楽しむ

D,W,ウィニコットの1958年の論文「一人でいられる能力」についての要約です。一人でいることが病理ではなく、一人でいることができるのが健康の指標であるとウィニコットは論じています。そして、そのためには幼少期の養育者との健全な関係が必要であるとしています。

本論文は情緒発達の精神分析理論―自我の芽ばえと母なるもの (現代精神分析双書第II期)に収録されています。

1.論文の背景

1941年(45歳)にアンナ・フロイトとクラインの大論争が起こる。1951年(55歳)にクラインとの決別する。

クラインとアンナ・フロイトの論争、そして後に英国精神分析の世界を二分する危機であったこの論争の中で、ウィニコットは独自の立場を守る中間学派、あるいは独立学派というグループを作るが、対立を弁証法的に解消したいという思いを抱いていた事は論争記録の中に描かれている。

「一人でいる能力」というのは、彼自身が2つの学派の中にあって、どのようにして自分の立場を維持できるかという困難さの中にあって重視されたことなのだろう。

論文の冒頭でウィニコットは、精神分析に関する文献を通覧しても、一人でいられる能力についてよりも、一人でいることに対する恐怖や、一人になりたい願望といったことについてたくさん書かれており、一人でいられる能力の陽性の側面の考察はもっと早くなされてしかるべきである、と論文の執筆の動機を述べている。また、フロイトの1914年の論文「ナルシシズムの導入にむけて」の依存的関係(Anaclitic Relationship)という概念について書きたい、との思いも語っている。

2.情緒発達の成熟度について

ウィニコットは個人の一人でいられる能力について、それが情緒発達の成熟度を示す重要な指標であると指摘している。ほとんどすべての精神分析で、一人でいられる能力が患者にとって重要となる時期が必ず来る。

臨床的には沈黙がちな時期あるいは治療時間といったかたちであらわれるが、この沈黙は抵抗の出現とはほど遠く、患者が何かをなしとげた結果であることがわかる。

おそらく、患者が人生のなかで一人でいられるようになるのはこの時点がはじめてだろう。注目すべきは、患者が治療時間の中で一人になるという転移のこの側面についてである。

3.三者および二者の関係

(1)三者関係

エディプス・コンプレックスは三者の関係が体験領域を支配する時期である。

(2)二者関係

幼児と母親ないしはその代理者とのあいだにはじまるが、それは母親の特徴を認識して、さらにそれが父親の観念へまで発展する以前の時期の問題である。二者関係は、クラインの抑うつポジションという概念の中心的様態である。

(3)一者関係

早期の型の二次ナルシシズムにしろ、一次ナルシシズムにしろ、ナルシシズムは一者関係と言えないこともない。

4.現実に一人でいること

ただし、ここで現実に一人でいることを論じようとしているのではない。独房に監禁されてしかも一人でいられないということはある。

しかしながら、多くの人は子ども時代を脱する以前に孤独を楽しむことができるようになる。さらには孤独をかけがえのない財産として大事にすることさえみられる。

一人でいられる能力は、高度に知的加工の加わったSophisticated現象である。すなわち、三者関係が確立された後の情緒発達のなかで現れるものである。あるいは、それが知的加工の加わった一人性Alonenessが造りあげられる礎石となるために特別に研究してみるだけの価値がある、人生早期の現象のいずれかをさしている。

5.パラドックス

一人でいられる能力の確立のためには、幼児または小さな子どもの時、母親と一緒にいて一人であったという体験である。つまり一人でいられる能力の基盤は逆説である。それは誰か他の人が一緒にいる時に持った一人でいる(To Be Alone)という体験なのである。

ここでは特殊な関係を意味する。それは、一人でいる幼児または小さな子どもと実際いつも頼りにできるように一緒にいる母親またはその代理者(乳児のベッド・乳母車・身のまわりの全般的な雰囲気といったことで表されることがあるかもしれないが)とのあいだの特殊な関係である。これを自我の関係化(Ego-Relatedness)という。

そこでは一方は幾分なりとも一人でいるが、おそらく両者とも一人でいるのだろうけれども、しかもお互いそこにいることが両者にとって重要なのである。

自我の関係化はイド関係(Ido-Relationship)という言葉とははっきりした対照をなす。例えば、好き(Like)は自我の関係化の問題である。一方で、愛する(Love)は生のかたちであれ昇華されたものであれ、イド関係の問題である。

6.性行為のあと

おそらく満足な性行為のあとでは両者とも一人であり、一人であることに満足しているといってもさしつかえない。

他者(彼もまた一人)と一緒にいながら一人でいることを楽しむことができるということはそれ自体健康な体験である。

引きこもり(Withdrawal)と呼ばれる特性とは比較的無縁な孤独を分かち合うのを楽しめる。

7.原光景

個人のもつ一人でいられる能力は原光景でひきおこされる感情を処理する能力によって決まってくる。

原光景では両親の興奮した関係が目撃されるか想像される。これは憎しみを克服しそれを自慰行為の糧として使える健康な子どもには容認される。三者または三角関係の第三者である子どもは自慰行為のなかで意識的無意識的空想を自分のものとして利用する。

こうした環境で一人でいられるということは、性愛的発達の成熟性、つまり、性的能力および女性ではそれに相当する受容性が成熟しているということを意味する。

8.内的な良い対象

一人でいられる能力は個人の中の心的現実(Psychic Reality)に良い対象がいるかどうかによって決まる。

内的な良い乳房、良い男根、あるいは内的な良い関係が確立し、それがこわされないと(しばらくのあいだは幾分なりとも)、個人は現在と未来に対し自信をもつことを保証される。

成熟や一人でいられる能力は個人が適切な母親の世話を通じて良い環境を信用する機会を持ったということを示している。この信用は十分な本能満足が繰り返しなされてはじめてできるものである。

9.未熟な状態で一人でいること

一人でいられる能力は、誰か他の人と一緒にいてしかも一人であるという体験を人生早期に持ったという基盤にしてできあがるということが本題の主要な論点である。

他の人と一緒にいて一人であるということは、未熟な自我が母親に自我を支えてもらうことによって自然な均衡を得るといった人生早期の現象である。時の経過とともに、自我支持的な母親を取り入れる。すると母親およびその家族が実際に四六時中一緒にいなくても一人でいられるようになるのである。

10.わたくしは一人でいる

(1)わたくし(I)

かなりの情緒的に成長した事を示す言葉である。個人はひとつの単位として確立されたものであり、統合も実在する。外界は放棄され、内的世界の存在が可能となっている。これは人格をひとつの物として、あるいは自我といういくつかの核が組織化されたものとしてトポグラフィカルに述べたにすぎない。

(2)わたくしはいる(I am)

この言葉で個人は形のみならず生命をもっていることになる。わたくしはいることの最初では、個人は、いわば生のままであって、無防備で傷つきやすく多分に偏執病的になりやすい。

個人は保護してくれる環境があってはじめてわたくしはいるということが可能となる。母親は自分の幼児に没頭し、幼児と同一化することによって幼児の自我要求Ego Needに身をささげている。

このわたくしはいるの段階で幼児が母親の存在を感知しているかどうかを考える必要はない。

(3)わたくしは一人でいる

この段階では母親がいつも居ることを幼児は感知している。ただし、意識的に気づいているわけではないが、わたくしは一人でいるはわたくしはいるからの発展であり、頼りになる母親がいつも居るということを幼児が気づいていることが前提となる。

母親に対する信頼にもとづいて幼児はしばらくのあいだは一人となり、一人を楽しむことができるようになる。

11.自我の関係化

自我の関係化とは、ウィニコットは友情がつくられる原材だと考える。また、転移の原基でもある。

イド衝動はそれが自我活動の範囲内にある場合にのみ意義がある。イド衝動は弱い自我をだめにすることもあれば、自我を強化もする。イド関係はそれが自我の関係化の枠組のなかでおこるとき、自我を強化するということができる。

幼児が自分独自の生活を発見できるのは(いわば誰かと一緒にいて)一人であるときのみなのである。一人でいるときはじめて幼児は大人のくつろぐといわれるものに相当する状態に達することができる。

そうなってはじめて幼児は統合を失い、困難から逃れようとし、当てもなくさ迷うといった状態になることができ、またほんのしばらくは外界からの侵害に反応することもなく興味や運動への方向をもった活動的な人間になることもない存在ともなれる(つまり健康な退行ができるようになる)。

こうした状況ではじめて感覚や衝動は実在感をもち、真に彼独自の体験となる。誰か役に立つ人がいること、何の要求をすることもなく誰かそこに居るという状況で、衝動が現れるとイド体験は実り豊かとなり、そこに一緒にいる人の、とくに母親の、一部分または全体が対象となれる。幼児が実在感を伴った体験をもてるのはこうした状況においてだけである。

一人でいられる能力を発達させることのできた人は、絶えずその個人に特有の独自の衝動を再発見でき、独自の衝動が無駄にされることはない。一人でいる状態は誰か他の人がそこにいるということを意味する、逆説的ではあるが、何かであるからである。

(参考:ウィニコット「交流することと交流しないこと(1963)」

12.自我の関係化における絶頂感

(1)自我オーガズムとしての恍惚状態(Ecstasy)

自我オーガズム(Ego-Orgasm)は、本能的体験に抑圧的な人はそうしたオーガズムに特殊な関心をもとうとする。

(2)正常な人

コンサートや劇場あるいは友達関係の中で得られる高度に満足的な体験は絶頂感や、絶頂感の重要性に力点が置かれた自我オーガズムという用語をあてはめてよいであろう。

子どもたちの楽しそうな遊びと、強迫的に興奮して本能的体験に非常に近い体験をしているようにみえる子どもの遊びとのあいだには大きな相違がある。

(3)正常な子ども

局所的興奮を伴った身体的オーガズムにおびやかされることもなく遊ぶことができ、遊んでいるあいだに興奮しゲームに満足感を味わうことができる。

(4)剥奪された子ども

反社会的傾向をもった剥奪児やそう病的防衛をもった落ち着きのない子どもは遊んでいる間に身体的な興奮がおこるために遊びを楽しむことができない。子どもは身体の絶頂感を(おそらく強迫的に)求める。

13.解説と議論

(1)まとめ

一人でいられる能力は高度に知的加工の加えられた現象で、それは情緒的成熟と密接に関連している。一人でいられる能力の基礎は、誰か(人生早期に一時的に幼児と同一化し、しばらくは自分の幼児の育児以外に何の関心も持たない人物と同じ意義を持つ誰か)と一緒にいてしかも一人でいる体験である。

自我の関係化の枠組みのなかでイド関係がおこると未熟な自我をだめにするよりむしろ強化する働きをもつ。次第に自我を支える環境は取り入れられ、個人の人格のなかに組み込まれる。そこで本当に一人でいられる能力ができあがる。

(2)養育者との関係

ウィニコットは幼児が一人でいられるためには、幼児のneedを満たしてくれる母親(または養育者)の存在が必要であり、それ無しでは幼児は安心して一人でいることができないという事を語っている。このように単純に一人でいられるようになることが大事というのではない。養育者との自我の関係化が生じている中で、幼児が一人でいられることの重要性に着目している点はウィニコットの臨床的な鋭さや生き生きとした視点を感じさせるところである。

(3)沈黙

論文の冒頭においても書かれているが、臨床場面においては、やはり沈黙の場面がこの能力を考える上でイメージしやすいように思われる。おそらく沈黙が生じても、クライエントがゆったりとした雰囲気で、色々な事を内的にワークしているように感じられる時は、おそらくセラピストとの自我の関係化のもと、クライエントは一人でいられるようになっているのかもしれない。また、そういった時はセラピストも一人でいられるような感覚を味わえるだろう。そういう時はセラピストもどこか安心して物思いにふけることができる。

一方で、カウンセリングの場から強く引きこもって沈黙しているような時や、強い不安によって沈黙が生じているような雰囲気を感じる時は、クライエントは一人でいられてはいない可能性があり、セラピストもどこか焦ったり、不安になったりしてしまい、安心して一人でいることができなくなっている。特に病態の重いパーソナリティ障害のクライエントや自閉症スペクトラムの問題を持っているクライエントとのカウンセリングにおいては、一人でいられるという感覚をなかなか味わいにくいだろう。

(4)養育者の成熟

一人でいられる能力を「情緒発達の成熟度を示す重要な指標である」と指摘している点もウィニコットのオリジナリティを感じさせる。養育者との自我の関係化の枠組みの中で退行する事が自我の強化に繋がったり、実り豊かな体験になるとも述べられており、ウィニコットの治療論にも繋がる論点であるように思われる。

ウィニコットは幼児側の一人でいられる能力の重要性について述べていますが、この能力の発達のためには、母親や養育者側も一人でいられる能力が十分に発達している必要があるかもしれない。幼児が一人を楽しむ事を邪魔すること無く、かといって放置する事もなく、幼児に関心を向けつつ、母親も一人を楽しめる関係性が大事になってくるのかもしれない。

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