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交流することと交流しないこと

一人が好きなの

D,W,ウィニコットの1963年の論文「交流することと交流しないこと:ある対立現象に関する研究への発展」についての要約です。交流しないことの健康な面や、その取り扱いについて書かれています。その中で解釈の限界についても触れられています。

本論文は情緒発達の精神分析理論―自我の芽ばえと母なるもの (現代精神分析双書第II期)に収録されています。

1.論文の構成

対象と関係を持つこと(object relating)について述べ、徐々に交流すること(communicating)に関するテーマへと移っている。その中で、主眼として人格の核となる部分は、客観的に知覚された世界と関わることがないこと、各個人は永久に見つけられることもない、ひとつの分立したものであるということ、を説明していっている。

また、「かなりの程度思うままにこのテーマを追っていくことになると思う」とのことで、付随的なテーマである対立現象に関する論究も登場してくる。

2.対象と関係を持つこと

(1)万能感の体験

対象と関係を持つことは単なる成熟過程の問題ではない。成熟は発達促進的環境が必要である。発達促進的環境であれば、徐々に対象の性質が主観的現象であった対象から客観的に知覚される対象となる。

この早期の段階では発達促進的環境は幼児に万能感の体験を与える。この言葉には体験の創造的側面が含まれている。主観的対象との関係の領域内でおこる万能体験から現実原則に対する適応が生まれてくる。発達促進的環境では万能体験から対象の創造が繰り返されて、人格に組み入れられ記憶として集積される。

対象は健康な幼児はまわりにあって見つけられるのを待っているものを創造するが、対象は創造されるのであって見つけ出されるものではない。一つの逆説として受け容れてもらいたいのは、良い対象はそれが幼児によって創造されないかぎり、幼児にとって良い(good)のではない。しかも対象は創造されるために見つけだされなければならない。

(2)主観的対象から客観的対象

対象の位置を考慮に入れると、主観的対象から客観的に知覚される対象への変化は、満足よりも不満足によるところが大きい。本能満足(授乳など)は幼児の独自の体験にはなるが、対象の位置(主観から客観)に対しての効果はない。融合を達成した後で、対象の行動が欲求不満をひきおこすことは、幼児に自分ではない世界(Not-me World)があることを教える上で意義がある。

母親の適応失敗は、幼児が対象を憎める限り、つまり対象について今は満たしてくれないがいつかは満たしてくれると観念がある場合のみ意義がある。精神分析では、融合が達成されて環境の失敗もプラスの役割を演じるまでになった幼児は、それによって放棄された世界を知り始めるということがしばしば見過ごされる。

健康な情緒発達では、満足を与えてくれる対象との関係のなかで、対象の拒否がもっとも大切な体験となる中間的な時期がある。対象の拒否は対象の創造的過程の一部分をなしている。

「患者のことは患者がよくわかっている」ということをわかっているなら、分裂病的部分での作業では、患者が話してくれるまで待つことになる。そして、私たちが無駄に与えていたであろう解釈も創造的にできる。単なる頭の鋭さや経験に任せた解釈を与えたら、患者はそれを拒むなり打ち負かさざるを得なくなる。

3.交流に関する理論

対象が主観的なものから客観的に知覚されるものへと変化するにつれて、交流の目的と意味も変化してくる。対象が主観的なら交流は表面に出る必要がない。対象が客観的なら交流は表面に出るか、無言のままになるかのいずれかになる。

ここでは以下の2つの新しいことが生じる。

  • 個人がいくつかの型の交流を楽しむようになること
  • 個人のもつ交流しない自分、すなわち真に分立したものとして独自の自己の中核ができること

つまり、幼児は同時に環境としての母親に対する関係と対象としての母親に対する関係の2つの種類の関係を発展させている。環境としての母親との相互交流は捉えにくく、幼児だけでなく、母親も研究の対象にしなくてはいけなくなる。恐らく、幼児にとって母親の頼りなさを体験することではじめてあきらかになるような交流である。幼児は傷つくことになるが、母親が幼児の立場に身を置いて幼児の傷つきを認めれば一つの交流として母親はこれを認めたことになる。

もし、母親の頼りがいがはっきりしていれば、幼児はただ存在するだけで交流し成熟過程に従って発達することで交流していくと考えられるが、一般的な交流とは言い難い。

4.客観的に知覚される対象

客観的に知覚される対象は徐々に部分対象をもったひとりの人間となってくる。交流には2つの対立現象がある。

(1)単純な、交流しないこと(Not communicating)

単純な交流しないことは休んでいるようなもので、それ自身の権利をもったひとつの状態。次第に交流することに変わっていく。自然なものである。

(2)積極的または反応的な、交流しないこと

精神病理と正常心理の両面から説明が必要である。精神病理的に説明していくと、発達促進ということはある面である程度は失敗がある。対象と関係をもつという面からみると、幼児は人格の分裂を作り出している。

a.偽りの自己

そこに存在する対象と関係を持つ外界服従的自己がある。偽りの自己から生じる外界との交流には実存感は伴わない。自己の中核が関与していないため、真の交流にはならない。

b.本当の自己

主観的対象、身体的体験から生じた現象と関係を持つ自己がある。これは客観的に知覚された世界に影響されることはほとんどない。臨床的には、身体を前後に揺らす運動や袋小路的交流や理解し難い抽象画などに現れている。

外からみると空疎に感じられるかも知れないが、主観的には実存感をそなえている。極端な例は小児分裂病である。だが、ある程度、病的で、ある程度健康な軽症例にも当然存在する。「交流することは、外界服従的自己と結びつきやすい。均衡をとるためには、主観的な実存感を伴う、言葉にならない、密かな交流が周期的にとって代わらないといけない」のである。

本当の健康とは、実存感を確立するために、いかにして交流しないことを健全に活用するかにかかっている。人間の文化生活(幼児にみられる過渡対象)は、対象が主観的だろうが客観的に知覚されようが、おかまいなしになされる。あらゆる種類の芸術家は交流したいという差し迫った欲求と見つけられたくないというさらに差し迫った欲求がある。

(参考:ウィニコット「一人でいられる能力(1958)」

(3)症例

a.女性の夢

交流することがないくせに交流を通じて見つけられたがっている秘密の自己を確立しようとする子供の姿がある。隠れることは喜びでありながら、見つけられないことは苦痛である。

b.17歳の少女

健康な人には、分裂した人格の本当の自己の部分に相当する人格の核がある。この核は客観的に知覚された世界と交流することは決してなく、外界と交流したりその影響をうけたりしてはならない。

(4)健康な引きこもり

健康な人は交流も楽しむが、別の側面、つまり各個人は永久に交流することもなく永久に知られることも、つまり見つけられることもない、ひとつの分立したものである。

実際の生活では、この厳しい事実はあらゆる領域にわたって共有される文化的体験に隠されて緩和されている。が、中心には交流されない要素がある。

早期の環境としての母親の破壊的な失敗体験とは、原始的な防衛を組織化させる原因となった外傷体験は中核にたいする脅威、つまり見つけられ、変えられ、交流を余儀なくさせられるという脅威のひとつであった。そのため、防衛は自己の隠蔽、さらに極端になれば投影や拡散である。密かに分立したままにしておきたいという欲求を持つ人間に脅威となる精神分析に対し、人々が向ける憎しみも理解出来る。

問題は中核的要素が隔絶されることなく、いかに分立するか。母親が客観的に知覚されるようになるまでに、幼児は色々な技術をもつ。それらの過渡期に過渡対象や現象が姿を見せ、それを通じ幼児は象徴の活用を軌道にのせる。自我発達の基礎は、個人の主観的な対象と交流するこの領域にあり、それのみが実在感をもたらすと考えられる。

最適な環境では子供は3つの交流をもつようになる。

  • 永遠に無言な交流
  • 間接的で快感を伴った、表面にあらわれる交流
  • 遊びや、あらゆる種類の文化的体験のなかで姿をみせる過渡的な交流

無言な交流については、患者からの積極的な働きかけとしての、「交流しないこと」がある。精神分析家はこの信号をよくわきまえ、交流の失敗に伴う苦痛な信号と区別できる必要がある。これは、誰かと一緒にいてしかも一人であるという考え方と関連する。

5.対立現象

交流には2つの対立現象がある。

  • 単純な交流しないこと
  • 積極的に交流しないこと

別の言い方をすると、交流のないところから自然に移行してあらわれてくる単純な交流と沈黙(無言)の否定や、あるいは「積極的に反応的に交流しないことの否定としてあらわれる交流」がある。

精神分析が精神分析家の、患者の交流のないことの否定との限りなく長くつづく衝突となるようであれば、安穏としてはいられない。沈黙の期間が患者のなしうるもっとも有効な作業となり、精神分析家は自然、待ちの精神分析に腰を据えることになる。

精神分析家が主観的な対象の位置に立たされたり、患者の転移性精神病のつよい依存がみられるなどで、被分析者の人格の最深遠部に到達しえる場合はもっと深刻である。精神分析家が患者自身で創造的な発見をする前に解釈をしてしまうのは危険である。中核領域に近づいている程、精神分析家は危険な存在になってしまう。

解釈の重要な機能は精神分析家の理解の限界を明示することにある。

6.分立したものとしての個人

(1)青年期の特徴

個人の中核には非自己の世界といかなるかたちの交流もしない部分がある、ということを主張してきた。分立したものとしての個人のテーマは、幼児や精神病の研究でも意味はあるが、青年期の研究においても重要である。少年少女は分立したものとしての青年期の若者という捉え方がある。

彼が独自の分立を保持するのは、同一性や自己の中心部を破壊しないですむような独自の交流技術の追求の一部分をなしている。若者が精神分析理論に興味をもつのに精神分析を敬遠する理由のひとつである。彼らは性的にではなく、精神的に、精神分析に強姦されたと感じるのである。

青年期を扱う精神分析家は、単純に交流しないという現象を受け入れるだけの心の準備ができている必要がある。青年期では、見つけられることに対する防衛の強化として、見つけられる前に自分をみせてしまう。真に実在感があるものはどんな価値を払っても防衛しないといけないため。

(2)打ち消しとしての対立現象

ここで、打ち消し(否認よりもより意識に近いところでの否定)のひとつである対立現象に今一度かえる。活気(Liveliness)をとりあげてみると、すくなくても2つの対立現象を考えないといけない。

  • 躁的防衛の概念のなかにみられる生気のなさ
  • 活気の単純な欠如

無言が交流に、静けさが運動に対応するのはここである。この考えから、生と死の本能理論に対する根強い反対論を支持してきた。個々の幼児の情緒発達のなかで、交流が無言から生じてくるように、生活のないところから生活が生まれて確立され、存在は非存在に取って代わって現実となる。生(Life)がその対立現象として死(Death)をもつということを容認出来ない。

(3)生きていること、または活気に対する全く別の対立現象

通常、幼児は母親のもつ活気のある子どもの観念に調子を合わせる。だが、母親が抑うつで対象の中心部が死んでいる場合は、幼児は死んだ対象に調子を合わせるか、死んだという先入観を打ち消すための活気をもたねばならない。

母親の抑うつ感情から生じた反-活気的要因(Anti-life Factor)である。ここでの幼児の仕事は生きること、生きているようにみせること、生きていることを伝達することである。

生命と生活がもたらすものを享楽することを否定されてしまった個人のもつ究極的な目標である。出発点に到達し、そこを動かないがための絶えざる格闘がある。

健康な情緒発達においては、幼児は生命をもたないで歩きはじめる。そして、現実に生きているというだけで活気をもってくる。

7.議論

人生早期の対象をもつことから、交流に至るまでを追っている論文である。人格の核となる部分は交流することなく、周りからみたら空疎だが、当人にとっては実存感がある。そして、これは誰かと一緒にいるけどお互いが一人であるという所から培われていっているということである。

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