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文化の中の居心地悪さ

この「文化の中の居心地悪さ」という論文はフロイトが1930年に書いた後期の論文であり、文化論・宗教論のジャンルに属する。人間にとっての文化とは何か?について考察している。

フロイトは文化とは人間の生存システムを維持するための装置であり、その代償として不快さや気持ち悪さを常に抱えざるをえなくなっていると論じている。死の欲動の概念が精神分析に導入されて以来、悲観的な人間理解になりつつある中で書かれた論文である。

1.文化の中の居心地悪さ(1930)の要約

(1)概要

a.大洋感情

フロイトの「ある錯覚の未来」へのロマン・ロランの「宗教そのものの源泉を評価していない」という指摘。宗教の源泉は「大洋性」の感情であり、外部世界の全体とともに生きているという結びつきの感情だという。

「ある錯覚の未来」については以下をご覧ください。

精神分析の方法でこの感情を考察してみたい。わたしたちにもっとも確実なものは、自我が独立したもので他のものとは区別されたものと感じられることである。しかし乳児は自分の自我を外から押し寄せる感覚の源泉である外界と区別していない。精神分析において、快感原則は自我の内にあって不快の原因となりうるものをすべて自我の外に放り出し、純粋な快感自我を形成する。

しかしその後の経験によって快の感情の源泉が外部にあることや不快な感情の源泉が自我の内にあることが明確になる。内部と外部を区別できるようになることが現実原則の確立への第一歩である。

自我は最初すべてのものを包みこんでいる。大人の自我感情は、この原初的な自我感情がしぼんだ名残りにすぎない。これが「大洋性」の感情の正体であり、事後的に宗教的なものと関係をもつ。宗教的な欲求の起源とは幼児の寄る辺なさと父親の庇護を求める強い欲求であると精神分析的に理解できる。

b.人間が幸福を求めること

幸福の希求には、苦痛・不快を避けたいという消極的な面と強い快感を得たいという積極的な面がある。しかし厳密な意味での幸福は強くせきとめられて欲求が急に満足させられるときに生まれるものであり、快感原則が望んでいた状況も長続きすると、気の抜けた快適さとなってしまう。

しかし不幸を経験するのははるかにたやすい。苦難の原因には身体・外界・他者との関係の三原因があるが、人間は苦痛を避けることを優先させて、快感の獲得は後景に退くようになった。

快の獲得や苦痛回避の方法はさまざまである。享受の重視、他人から遠ざかる、薬物依存、欲望の滅却を目的とした東洋の生活の智恵・ヨガの修業。また別の技法としてリビドーの目標をずらす昇華、幻想による欲動満足と言える芸術・宗教・妄想、愛することと愛されることによる満足があるが、すべての人にあてはまる好ましい方法というものはない。

しかし宗教はすべての人に同じ道を強制する。宗教は個人を神経症に陥るのを防ぐ力をもつが、人生の価値を貶めて、現実の世界のイメージを妄想によって歪める。人々を心的な幼児性に固着させ、集団妄想に引きずり込む。

c.文化への敵視

人間の苦悩の三つの源泉つまり自然・外界、身体、そして他者との関係・社会・文化の中で第三の源泉に対しては、人間は避けられないものとして受け入れる姿勢をとらない。

ここから人間が自ら作り出した文化がすべての人間に保護と恩恵を与えないことは理解しがたいという「文化への敵視」が生まれる。

自然科学とテクノロジーの異例な進歩により人間は思うがままに自然を支配し利用できるようになったが、人間が以前より幸福になったと感じられるわけではない。

そもそも文化とは何か。ここでは「人間の生活と、人間となる以前の動物的な祖先の生活の違いを作り出したものであること、これは自然の脅威から人間を保護し、人間の相互的な関係を規制するという二つの目的に役立つすべての機能と制度の総称である」としておこう。

個人の自由は文化の所産ではない。最大の自由が確保できたのは文化誕生以前の段階である。文化が発達すると個人の自由は制約される。文化に飼いならされていない原初的な人格の残滓からも自由への憧れが生まれる。これが文化敵視の土台となることがある。

文化の発達は個人の生涯において人間のさまざまな欲動の傾向が変化していくプロセスによって特徴づけられる。秩序と清潔さの文化的要求などは文化発達と肛門愛という個人のリビドー発達の類似を感じさせる。また満足の条件をずらして別の道を進むように促される欲動もある。

つまり昇華によって科学的、芸術的、イデオロギー的な活動が文化生活において重要な役割を果たすこともできるのだ。他方で文化は欲動を抑圧し、押しのけ、放棄させてもいる。

d.家族・愛と文化

最初の文化的所産は、外的な困窮への対抗と愛の力が多数の人々を一つの共同体で生活できるようにしたことである。愛の力により男が性的対象としての女を手元におき、女は子どもを手元におくことを望み家族が形成された。

家族は男と女の間の「性器的な愛」と親子間・兄弟姉妹間の「目標を静止された愛」 によって結びつく。後者からは「友情」が生まれる。

文化は人々をより大きな集団にまとめあげるが、家族は閉じる傾向を持つためその成員を共同体に譲りわたそうとしない。女性は家族と性生活の利益を代弁し、文化の潮流に反対するが、男性は昇華により文化的な仕事を更に担う。

文化の側からみると、性生活に制約を加えることも重要な課題となる。西洋文化は幼児の性的な生の発現を厳禁することから始まる。これにはいかなる根拠もない。そして対象選択を異性に限定し、性器を使わない欲望の充足のほとんどを倒錯として禁止する。

さらに性愛を一夫一婦制(結婚制度)のうちにのみ限定し、「子孫をつくるための手段」としてのみ公認しようとする。それゆえ幸福感の源泉という意味はほとんど喪失してしまった。

e.攻撃欲動と文化

文化は共同体の絆を友情関係で強化するために「目標を制止された」リビドーを大量に動員している。このための理想要求の一つの実例として「隣人を汝のごとく愛せよ」があるが、これは困難なことである。

人間とは、攻撃された場合だけに自衛するような柔和で、愛を求める存在ではないし、人間に与えられた欲動には、多量の攻撃欲動が含まれる。「人間は人間にとって狼なのである」。人間相互の敵意から文化はつねに崩壊の危険にさらされている。

文化は人間の攻撃欲動に制約を加え、心的な反動形成の力で攻撃欲動の表現を抑制しなければならない。人間を同一化と「目標を制止された」愛情関係へと駆り立てるすべての方法が動員される。

共産主義は、私有財産制度のために人間の善き本性が腐敗したというが、この心理学的前提は根拠のない幻想である。人間の攻撃欲動は、財産がまだ排泄物と明確に分離できない肛門愛の原初的な形式から離れようとする時期から形成される。

攻撃欲動の満足の断念は困難であり、これを放棄すると人は幸福を感じないものである。多数の人々を互いに愛しながら結びつけることができるのは、攻撃欲動の「はけ口」となるような人々が外部に存在する場合に限られる。単に小さな差異で分けられる共同体の間の敵意がみられるが、これは「小さな差異にこだわるナルシシズム」と呼んだものである。

文化が徐々に変革されて、人々の欲求がもっと満たされることを期待してよいが、しかし同時に文化の本質にはいかなる改革の試みも失敗させてしまう困難が伴うのである。

f.文化・生の欲動と死の欲動の闘い

精神分析理論の全体において欲動論は不可欠である。当初は自我欲動と性欲動を対立させる考えを用いた。その後はナルシシズム概念の採用によりナルシシズム的リビドーが対象に向かった場合には対象リビドーになるが、自我に復帰してふたたびナルシシズム的リビドーに戻ることができるという考えに至った。

しかし「快感原則の彼岸」で反復強迫と欲動の生の保守的な性格を思いついたのである。そしてエロスの他に死の欲動が存在することを認め、すべての生命現象を生の欲動と死の欲動の協力・対立により精神分析的に説明しようとしたのである。

死の欲動は生物の内部にあって死を準備するために働いている。死の欲動の一部は外部に向かい、攻撃欲動として他の物を破壊し、生の欲動に奉仕する。この欲動についての理論は、最初は試験的に提示していたにすぎなかったが、やがてこの考えに納得してしまい、もはや別の考え方をすることはできなくなってしまった。

文化とは最初はバラバラの個人を、次に家族を、さらに部族、民族、国家などを、より大きな統一である人類にまとめようとするエロスに奉仕するプロセスである。しかし人間に生まれつきに備わっている攻撃欲動が文化のこのプログラムに抵抗する。文化の発展とは人間という種の生存を賭けた闘いである。

g.超自我・罪悪感と文化

文化はみずからに対立する攻撃を抑制するためにどのような手段を用いているのか。それはこの攻撃欲動を内側に向け、内面化し、超自我として自我に向けることによってである。これが「良心」となる。超自我と自我との緊張関係が「罪の意識」であり、自己懲罰の欲求として表現される。

罪悪感には二つの起源がある。一つは外界の権威に対する不安から生じる。これは社会的な不安であり、人間の寄る辺なさや他人への依存度の高さから愛を喪失する脅威にさらされることは悪となる。それゆえ悪い行為を控える。もう一つは超自我に対する不安である。

自我の内部に権威が構築され、この権威への不安のために欲動の充足が断念され、良心の不安が生まれる。悪しき意図は悪しき行為と同じ意味をもち、超自我の前では何も隠し事ができない。

超自我の厳格さは外部の権威の厳格さを受け継いだことによるが、超自我が攻撃欲動を備える別の道筋が存在する。外部の権威が幼児の欲動充足を妨げたときには、幼児にかなりの攻撃性が生じる。幼児は外部の権威に同一化し、この攻撃性を自分に向けることで苦境を切り抜ける。

つまり超自我の厳格さは幼児が父親から経験したものではなく、幼児が父親に向けた攻撃を代理して示す厳格さなのである。つまり超自我の形成と良心の発生において、素質的要因と環境という外部の影響の両方が働くのである。

この超自我の厳格さや罪悪感の形成は、原始時代の<原父>の恐ろしさと<原父殺害>という系統発生的な要因も考慮しなければならない。人間の罪悪感を<原父殺害>に求めるとすれば、後悔の念は息子たちが父親に抱いていた原初的な感情の両義性によって生まれたのである。息子たちは原父を憎んでいたが、同時に愛してもいた。

攻撃によって憎悪が満たされると、この殺害という行為を後悔しながら、愛が出現する。そして父親との同一化によって超自我が作り出される。その後の世代でも、父親に対する攻撃傾向は繰り返し現れたために、罪悪感が残り、攻撃欲動が抑圧され、超自我にこれが転移されるたびに、この罪悪感は強められる。

両義性の葛藤のために愛と死の欲動の永遠の闘いの結果として、罪悪感の強化は文化と切り離すことはできないと精神分析的には考えられる。

h.文化の発展は自己破壊を抑えられるか

文化が発展したことの代価として、罪悪感が強まり、そのために人類の幸福は失われた。多くのの神経症の形式や症例では罪悪感は重要な役割を果たしているが、まったく意識されていない。文化によって作りだされた罪悪感も、罪悪感そのものとしては自覚されず、その多くが意識されないままであるか、あるいは不快感として、ある不満足として登場するのであり、そのためにもっと別の動機が探されたりする。

共同体にもある種の超自我が形成され、文化が発展する。ある文化的な時代の超自我は、偉大な指導者が残した印象から生まれるのである。文化の超自我も厳しい理想要求を定めていて、この要求を満たさないと、「良心の不安」に苦しめられる。こうした要求のうちで、人間の関係に関わるものはまとめて<倫理>として把握される。倫理が目指しているのは、文化の最大の障害物、すなわち人間に生まれつき備わる他者を攻撃しようとする傾向を除去することである。

文化の超自我も個人のものと同様に、人間の心の構成に配慮せずに命令するだけで、人間がその命令に従うことができるかどうかは、考えてみようともしない。しかしこれは間違った考え方である。精神分析では、もしエスを無制限に支配しようとすれば、個々の人間は反抗するか、神経症になるか、不幸になるしかない。

そして次の疑問は打消しがたい。人類全体が文化的な営みの影響で、「神経症的に」なるという診断を下さざるをえないのではないだろうか。だからといって治療法やいかなる慰めも与えることはできない。

人類の宿命的な課題は、文化の発展によって、人間の攻撃欲動と自己破壊欲動が共同生活にもたらす攪乱をコントロールできるのか、そしてどこまでできるのかということに尽きる。その観点からすると、現代は特に興味深い時代であろう。

人間は現在では自然の力をコントロールして、この力を利用して地上の人間を最後の一人になるまでたやすく殺しつくすことができるようになったのである。現代の苦悩、不幸、不安のかなりの部分は、誰もがこのことを知っているために生まれたものである。

(2)考察

a.生の欲動と死の欲動

フロイトはペシミスティックな言葉でこの論文を締めくくっている。1929年の世界大恐慌とドイツでのナチズムの台頭。時代が暗さを増していく中での出版である。1920年の「快感原則の彼岸」において、フロイトは自らの精神分析的欲動論を大胆に変更し、生の欲動と死の欲動の二元論の仮説を提起するが、自身の新仮説に心底納得はしていないと告白している。

その後この仮説への確信は強まり、1930年の「文化の中の居心地悪さ」では「この見地が次第に私を捉え、今ではもはやそれ以外では考えることができなくなった」と述べている。

死の欲動の外向化としての攻撃欲動は「破壊のための破壊」として発現するのか。フロイトは生と死の「二つの欲動は、たがいに独立して働くことはめったにない(あるいはまったくない)・・・さまざまな比率で混じり合いながら現れるのである」と述べている。

攻撃欲動は生の欲動と区別しにくく「エロスに奉仕させられている」とするならば、攻撃欲動は「破壊のための破壊」とは成りにくいと考えているのか。一方で、生の欲動と死の欲動の混合割合において前者が極小化するか、生の欲動から攻撃欲動が独立することにより攻撃欲動が単独暴走することはないのか。

この論文では、フロイトは「小さな差異にこだわるナルシシズム」が共同体間の敵意を生み、科学技術と攻撃欲動との結合が「地上の人間を最後の一人になるまでたやすく殺すことができる」可能性を生むことを示唆している。その後のナチズムによるホロコースト・第二次世界大戦における原爆投下などを予感させるような視点である。

「永遠なるエロスが・・不死の敵である死の欲動との闘いにおいて力を尽くしてくれること」にフロイトはわずかばかりの期待をかけている。しかしエロスに期待はかけられるのか。

生の欲動は主に自己保存欲動と性欲動から成り立つ。一般的なイメージとして、人間以外の動物の防衛本能が働くのは自己の身体・生存テリトリー・その動物の家族に危険が及ぶ範囲ではないか。他方で人間の自己保存欲動における「自己」は同一化により時間的空間的に拡大し、思想・信条・宗教・共同体とも一体化する傾向をもつ。それゆえ人間の「自己」は拡大が可能である。

これは地球規模の問題等の課題に対して「人類」として団結し取り組むという肯定面をもつものでもあるが、共同体間の争いつまり民族紛争や民族浄化、国家間戦争などのように拡大した「自己」を保存するために攻撃欲動が奉仕するという否定面をもつものでもある。

人間の欲動の「過剰性」についてフロイトはここではふれていない。他の動物と違って人間の欲動は終わりがなく過剰に増殖する。これは飽くことなくなく利潤を追求する「価値増殖の運動体」である資本の論理に合致する。「地球環境破壊」「生態系破壊」の問題等、フロイトの時代にはなかった問題に人間は直面している。それゆえ人類的課題は攻撃欲動だけでなく、生の欲動を含めた人間欲動全般の過剰性をどう処理するかにあるように思える。

b.性差と欲動

「女性は欲動を昇華したがらない」。これは本当か。これに言及するフロイトによる精神分析的な文脈では以下の通りである。愛の要求によって文化の基礎を築いた女性が文化の進行を遅らせるようになる。女性は家族と性生活の利益を代弁するからだ。

文化的な仕事は男性が担うものとなり、男性にますます困難な課題をおしつける。男性は欲動を昇華することを求められるようになる。そしてリビドーの配分の多くを、女性は家庭に、男性は仕事場に供給するという。

しかしリビドー配分の違いや昇華の能力の違いがこのような分業をうみ出したのか。人間は当初、自然界の脅威への対処として、身体的能力の差異から性別役割分業つまり女性は家内労働・男性は家外労働への従事を相対的に固定してきたと思われる。このような枠組みが科学技術の進歩によって自然界への脅威のかなりの緩和の後も歴史的に残存し、性差別も機能して男性の方がより多く文化的な仕事に社会的に従事してきている。

果たしてフロイトが言うように、女性が「家族と性生活」に留まりたがり、男性に文化的仕事をおしつけてきたがためなのか。むしろ反対に男性が家内労働を女性におしつけたがために、男性は家外労働、文化的な仕事や政治的な仕事に従事できてきたのか。

フロイトは「女性は欲動を昇華したがらない」「女性は文化的な仕事に男性と比べて従事しない」と言っているが、前者も後者も性別役割分業の構造的産物と見た方が妥当ではないのか。

2.文化の中の居心地悪さ(1930)の解説

(1)文化と文明と相違

  • 文明 civilization:自然や野生に対して人間社会の獲得物の総体
  • 文化 culture:文明の知的側面の総体

(2)ポイント

人間は破壊欲動を持っており、そのままにすると破滅してしまう。そのことを防ぐために人間は文化・文明を築き上げ、社会を形成し、遺伝子を未来につなげるシステムを構築した。そして、欲動の代替的に宗教や芸術、学問などの文化的活動に満足を求めようとした。

また、その満足にも失敗し神経症や倒錯への逃避をするが、いずれにおいても代替的満足が新たな苦痛を生み出し、不満や居心地悪さ、不快さを引き起こしてしまう。そうした意味で、文化は破壊欲動と性欲動の戦いの場であると言える。

(3)批判

a.ヘルベルト・マルクーゼ(1898-1979)

  • 急進的左派思想。
  • 現実原則は過剰抑圧を人間に課している。
  • 自由なエロスが社会変革の推進力になる。
  • 主著「エロスと文明」(1956)

b.ヴィルヘルム・ライヒ(1897-1957)

ヴィルヘルム・ライヒの写真

図1 ヴィルヘルム・ライヒの写真

  • 性格分析
  • オルゴン生命物理学
  • マルクス思想と精神分析の融合を目指す。
  • 革新的な性の解放論に基づく性の革命を唱えた。

→フリーセックス思想に継承

ヴィルヘルム・ライヒの「性格分析」については以下をご参照ください。

(4)人類の滅亡?

本論文の最後で、人類が最後の一人になるまで殺戮する、というくだりは現代では非常に現実味を帯びている問題である。

  • 核兵器
  • テロ
  • 環境破壊

a.ハンナ・シーガル(1918-2011)

ハンナ・シーガルの写真

図2 ハンナ・シーガルの写真

「私は、2001年9月11日は非常に象徴的だったと思う。私たちは、断片化の、いくつかの点では全面的解体と精神病的恐怖の世界に、そして完全な混乱のなかに突き落とされている。すなわち、私たちの友人は誰なのか?これは私たちの個人の発達でもっとも原始的な恐怖である。―普通の死ではなく、敵意の染み付いた個人の解体の想像図である。そして、神がこの均衡状態に加わると、状況ははるかに悪化させられる。アルマゲドンを待望するキリスト教原理主義者たちは、今やイスラム原理主義に匹敵する。私たちの正気は、万能感と絶対的邪悪と聖人の妄想的内的世界に脅かされている。不運なことに、私たちはマモン神(富と貪欲の神)とも戦わねばならない」

→精神分析家集団による世界平和や戦争に対する積極的な関与と発言

(5)ウィニコットの文化論

ドナルド・ウィニコットの写真

図3 ドナルド・ウィニコットの写真

  • 文化的体験の起源は個人と育児環境との間の潜在的な可能性に満ちた空間である。
  • 現実と内的世界の葛藤が消失するものではないが、文化は葛藤が強いられる生活から逃れることのできる休息地である。
  • 文化とは二者関係の錯覚がもたらすものであり、防衛的な側面と同時に創造的な側面もある。

3.さいごに

このような精神分析について興味と関心がある方は以下のページをご参照してください。

4.文献