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D,オレンジ『トラウマ、沈黙、そして解離(2019)』要約と解説

本稿は、D,オレンジによる論文『トラウマ、沈黙、そして解離』の内容を整理し、その要点をまとめたものです[1]。D,オレンジは、外傷的経験がどのように沈黙や解離という形で心の中に保持されるのか、またそれが臨床の場でどのように現れ、どのように扱われうるのかを、間主観的な精神分析の視点から検討しています。外傷的体験はしばしば語ることが難しく、当事者自身にも十分に意識化されないまま残り続けます。本稿では、解離、沈黙、歴史、暴力といった主題を手がかりに、人が語ることのできない経験がどのように心の中に存在し続けるのか、そして精神分析的臨床がそれにどのように関わりうるのかについて整理します。

ウィトゲンシュタインとトラウマ

座って悲しんでいる女性

哲学者ウィトゲンシュタイン(1889-1951)は、初期の著作『論理哲学論考』を「話をするのが不可能なことについては、人は沈黙せねばならない」という言葉で締めくくっています[2]。彼は、明白なことのみを述べるべきであり、倫理や宗教については私たちが語ることはできないし、少なくとも語ろうと試みるべきではないと主張しました。出版社に対しても、書かれていないものの方がむしろ重要であるという趣旨の手紙を書き送っています。

彼は8人兄弟の末っ子として生まれ、ウィーンの宮殿の中にある家で育ちました。製鉄業を営む父親は子どもたちに厳しい要求を突きつけ、将来についても製鉄業を継ぐこと以外を考えることを許しませんでした。子どもたちは父親に逆らうことも従うこともできず、4人いた兄のうち3人が自殺しました。しかし父親は、亡くなった子どものことを口にしないよう家族に求め、心の内を語ることは許されませんでした。それは、自分たちが求める人との結びつきを維持するために、自身の真実や自己体験を犠牲にすることを意味していました。

自身も真剣に自殺を考えた彼は、個人的な告白をしなければならないという繰り返される欲求と、「人は沈黙せねばならない」という主張との間に引き裂かれていました。名づけることができないほどの悲惨さに苦しみ、その中で沈黙することを学んだのです

沈黙と解離

白黒の泣いている女性

解離には、うっかり忘れてしまう程度のものから、外傷的なショックの後に生じる完全な健忘(amnesia)まで、さまざまなタイプがあります。

(1)分断に触れるとき

幼少期にひどい拷問を受けていた多重人格の患者が、分析家に対して明らかに別人格のような態度で言葉を発したとき、分析家は初めて内的な会話、すなわち外傷的ショックから生じた分断された部分に直接触れることになります。その瞬間には、このモーメントを可能にし、それを利用可能にするだけの十分な間主観的安全性が、患者と分析家の間に生じていることになります。こうした患者たちが必要としているのは、倫理的な目撃証人のような存在です。

(2)すき間に耳を傾ける

臨床経験は、解離とトラウマの合間に位置しています。患者の語りや治療の過程の中に、どこか何かが抜け落ちているのではないかという感覚がなければ、それを認識することは難しいものです

フロイトは、患者の意識的なストーリーの中に見られるちょっとしたすき間(gap)に耳を傾けるよう勧めました[3]。しかし彼は、外傷的体験が無意識の形成に関わるという考えを認めませんでした。フロイトの局所論において、力動的無意識とは、知ることに強い痛みを伴ったり、不安が掻き立てられたりするために、気づきから検閲排除された内容を含むものとされています。そこには、症状や夢、失策行為を生み出すエディプス的願望や去勢不安などが含まれると考えられていました。

また構造論では、超自我や外的世界の要求との葛藤が無意識性を生み出すとされました。こうした理論的枠組みの中では、フェレンツィの提起した視点は受け入れられず、彼は精神分析運動の中から追放され、解離という概念も正当な位置を与えられませんでした[4]

しかし現在では、フロイトが十分に発展させることができなかった事後性や反復強迫といった考えをより深く理解し、彼が退けた幾つかの視点を再統合する試みが進められています。その結果、フロイトの中核的な洞察は、現代の間主観的理解の中へと新たな形で取り込まれつつあります。過去40年の間には、フェレンツィの思想も再評価され、精神分析の理論的議論の中で復権してきました。

(3)よくあるタイプの解離

職場や家庭でうまくいかず、「ひどく気分が悪い」と感じている患者がいます。セラピーの場で何が問題なのかを説明することができず、自分が育った家庭は本当にごく普通だったと主張します。解離はスプリットであったり無感覚(blank)として現れたりしますが、穏やかで丁寧な質問に沿って話すうちに、患者は背景の物語(backstory)が問題を作り出していることを理解するようになり、分析作業が進んでいきます。

そこに何らかのトラウマがあるならば、すでにそこで解離の領域に入り込んでいると言えます。それは、フェアバーンによって記述されたスプリットされた心のようなものです。

(4)より複雑な解離

子どものころ、ほとんど無視されていた患者がいます。どんな人間にとっても当たり前だと患者が感じていることと、彼が自分のために求めることが許されていると思っていることとの間には、深い解離があります。その隙間は理解されることを求めていますが、患者も分析家もその結びつきを知ることができません。分析家から肯定されたり支えられたりしても、それは何の助けにもなりません。隙間はあまりにも深く、二人とも希望がないように感じ始めます。

ある日、分析家は「夢うつつ」の状態で目を覚まし、若いころの自分を思い出します。戦争から帰ってきた父親は、自分が見たものやそこでしてきたことを決して語りませんでした。それについて尋ねることも許されませんでした。精神分析を教えている現在でも、父親の歴史や、なぜ彼女がそこまで子どものころに控えめでいることを求められたのかについて、何も知らないと言ってもよい状態であることに気づきます。

次のセッションで、分析家は患者に対し、両親や祖父母が戦争を体験しているのか知っているかと尋ねました。ファシスト、戦争犯罪人、レジスタンスの闘士、亡命者、防空壕で生まれた子どもが家族の中にいるかもしれませんし、そのすべてがいたかもしれません。患者は個人史を掘り起こし、それを自分のものとし始め、そのままでは身の毛のよだつような出来事について自分なりに納得していくようになります。

(5)語られない歴史

患者は意識的には、家族が関わった残虐行為やレジスタンス、犯罪的政治体制の支持者や傍観者の歴史、あるいは家族がそこにどのように関与してきたのかを知らないことがあります。しかし、歴史のすべては家の中や家族関係の中に生き続けています。それをよみがえらせることなく、会話の中に持ち込むことなくセラピーを進めることは不可能です。

分析家自身が自分の外傷的歴史を避けることは、患者の解離の分析作業を行ううえでの妨げになります。私たちの多くは、無意識的で解離された傷を抱えています。患者も分析家も文化的・歴史的文脈の中に組み込まれていますが、それは目には見えないことも少なくありません。

(6)トラウマ、解離、沈黙の分析作業の意味

トラウマ、解離、沈黙の分析作業を行うということは、あらゆる精神分析的な意味での無意識性の分析作業を行うことを意味しています。精神分析とは、私たち自身について、知りたくないことを知ろうとする営みを意味します。私たちは、抑圧や解離のために知らないのかもしれません。不安や罪悪感のために知りたいと思わないのかもしれません。自国が酷いことをした事実を知りたくないのかもしれません。どのような「知らないこと」であっても、私たちは精神分析的に無意識性を扱います。

(7)自己開示

「逆転移の自己開示」(患者についてどのように感じているのかを直接話すこと)は、めったに必要とされず、あまり勧められるものでもありませんが、避けることができない場合もあります。分析家は個人史も逆転移反応も含め、すべての瞬間において無関心(indifferent)という意味での中立的な態度でいることはできません。臨床的常識が私たちに教えてくれるのは、より多く話すことではなく、より少なく話すということです。それでもなお、分析家は患者から身を隠すことはできません。そうしようとしても、自分をそうさせることになった間主観的傷つきや混乱を繰り返すことになるだけです。オープンな誠実さ(open sincerity)が重要になります。

ここで問われるのは、自己開示が患者のニードのためなのか、それとも分析家のニードのためなのかという点です。常にその問いを頭に置いておくことで、道を誤らずにいることができます。

もう一種類の自己開示は、非常に微妙なものです。いくつかの状況では「私たち」という言葉を用いるだけで、患者が述べている体験を理解していることを示すことになります。たとえば戦争の歴史についての質問などです。私たちがどちらも同じ人間コミュニティに属する存在であると示すことは、相手を安心させることにつながります。患者が恥の気持ちでいっぱいだと言うとき、私たちはそれが決して小さなものではないと知っています。人間は誰もがこうした経験を持っています。そうなると、それはもはや解離されたり否認されたりする必要がなくなります。

(8)人間同士の結びつきの重要性

体験同士の間、人間同士の結びつきは、身体的・心理的暴力が関与するときに特に重要になります。暴力(殴打、拷問、レイプ、心理的洗脳など)は、根本的な人間性、他者への信頼、自己への信頼、そして世界への信頼に対する攻撃です。

ブルース・ジャンツ(Bruce Janz, 2011)が書いているように、恥は私たちを脱主体化させます[5]。破壊された人たちは、恥のために自ら語ることができず、他の誰かだけが彼らのことを語ることができるようになることがあります。しかし彼は、たとえ不公正や恐怖に対する沈黙の目撃証人であっても、目撃証人になることは「話をする新たな能力へと向かうためのモーメント」(『倫理的な孤独』p.469 Jill Stauffer, 2015)であると信じています。ストーファーは、「私たちは、本当の恥と生の人生を感じられるようになって初めて、生じた真実に対する証言者となることができ、私たちや他の誰かが自分のイデオロギーのために今後行うことの目撃証人として真実を語ることができるようになる」と述べています[6]

暴力

骸骨と泣いている女性

(1)次世代との切断

いくつかの暴力は、闇の中でのみ進行します。沈黙は加害者を守り、犠牲者を恥じ入らせます。傷ついた人びとは、そしてときに加害者である人びとも、目撃証人を見つけることができず、救済を見いだすことができません。次第にそれらの出来事は記憶から切り離され、ストーリーを語る力や、自らの人生を意味づける力を失っていきます。

この切断は、両親や祖父母が自らの戦争体験を子どもたちに語ることを恐れたり、拒否したりすることによって、次の世代へと引き継がれていきます。

(2)真実を語ること

ダン・バー=オンが行った、ナチスの戦争犯罪人の子どもたちへのインタビューでは、「父親たちは語りたがらなかった。子どもたちは知りたがらなかった」という状況が示されています[7]。真実は語られることがなくなり、すべてはストーファーのいう「倫理的な孤独」の中に取り残され、聞かれることがなくなります。

ジュディス・L・ハーマンは、「ひどい出来事についての真実を思い出し、語ることは、本質的な課題である。それは、被害者や加害者個々人、そして家族たちの癒しのためだけでなく、社会秩序の修復のためにも本質的な課題である」と述べています[8]

(3)解離を解きほぐす方法

出来事を経験した人が亡くなり、また子孫に伝えたくないと思っている人びとがいるなかで、私たちは今何をすべきでしょうか。ひとつの方法は、私たち自身が歴史を細かく読む勇気を持つことです。それは、治療的プロジェクトのようなものとも言えます

米国には、約250年前にアフリカから連れてこられた人びとの子孫がいますが、その歴史を個人的記憶として覚えている人はいません。しかし、学べば学ぶほど多くの問題意識を抱くようになり、自分たちは関係ないと感じることはできなくなります。これこそが無意識を意識化することであり、解離を解きほぐす方法でもあります。

(4)記憶を支える

患者たちは、自分に取り付いているものが何であるのかを知らないかもしれません。しかし、分析家が丁寧に質問を重ねていけば、患者は何かを認識するようになるかもしれません。この仕事はすべて、無意識を意識化することによって、患者が解離や他の防衛を十分に理解できるよう支えるものです

トラウマ化された社会においては、その記憶が犯罪を含んでいようと、語るに堪えない喪失を含んでいようと、苦悩や混乱などあらゆるものを含んでいようと、記憶を支えることに取り組むことが精神分析の役割です。

精神分析家は、人がひとりでそれを知り語るにはあまりにも悲惨で難しい出来事が数多くあることを知っています。しかし同時に私たちは、誰かに立ち会ってもらい、誰かに支えてもらうことによって、たとえそれが文字どおりすでに亡くなった者であったとしても、沈黙していた人びとが何かを語り始めることがあると知っています。そして私たちは、その子どもたち、孫たち、患者たち、さらには私たち自身が、コミュニティの中によみがえり始めることを知っています。

『トラウマ、沈黙、そして解離(2019)』解説

(1)トラウマについて

トラウマとは、単に強い衝撃を受けた出来事そのものではなく、その経験が心の中で十分に受けとめられず、意味づけられないまま残される状態を指します。出来事があまりにも圧倒的であるとき、人はそれを一つの体験としてまとめて抱えることができず、言葉にならない感覚や沈黙、あるいは後から反復される苦痛として抱え込むことになります。そのためトラウマは、過去に終わった出来事であるにもかかわらず、心の中では終わらない現在として生き続けます。

またトラウマは個人の内部だけにとどまるものでもありません。家族の中で語られない死、暴力、喪失、戦争体験などは、言葉として知らされなくても、雰囲気や関係のあり方を通して次の世代に伝わることがあります。こうした意味でトラウマは、個人史であると同時に関係史であり、さらに歴史的・社会的文脈とも結びついた現象です。

D,オレンジが強調しているのは、こうした外傷的経験がしばしば沈黙の中に置かれるという点です。あまりにも苦痛であったり、語ることが許されなかったりする経験は、言葉として共有されることなく、個人や家族、社会の中に残り続けます。その結果、トラウマは単に個人の心理的問題として存在するのではなく、沈黙や否認、語られない歴史と結びつきながら、長い時間をかけて人びとの生を形づくっていくことになります。

(2)解離について

解離とは、外傷的な経験や耐えがたい感情に直面したときに、心の一部がその体験から切り離されることによって生じる心理的過程を指します。解離の形態はさまざまであり、日常的なうっかりした物忘れのような軽いものから、外傷的出来事の後に生じる完全な健忘まで幅広く存在します。共通しているのは、体験のある部分が意識や記憶から切り離され、心の中で分断されたまま保持されるという点です。

精神分析の歴史の中では、長い間、無意識は主として抑圧によって形成されるものと理解されてきました。フロイトの局所論では、痛みや不安を伴う内容が検閲によって意識から排除されることが無意識の形成と考えられていました。しかしフェレンツィなどは、外傷的経験によって心が分裂し、体験そのものが分断されるという現象に注目しました。この視点は当初十分に受け入れられませんでしたが、近年ではトラウマ研究の進展とともに、解離は外傷理解の重要な概念として再評価されています。

臨床の場では、解離はしばしばはっきりとした症状として現れるとは限りません。患者は自分の人生を普通で問題のないものとして語りながらも、どこかに空白や違和感を抱えていることがあります。話を丁寧に聞き取り、生活史や関係史をたどっていくなかで、語られていなかった背景や体験が少しずつ見えてくることがあります。こうした過程を通して、分断されていた体験は徐々に結び直され、患者は自分自身の経験を新たなかたちで理解していくようになります。

(3)間主観性精神分析について

間主観性精神分析は、心の現象を個人の内部に閉じたものとしてではなく、人と人との関係の中で生じるものとして理解しようとする精神分析の立場です。この視点では、患者の心的体験は孤立した内的世界の出来事としてではなく、他者との相互作用の中で形成され、理解されるものと考えられます。したがって臨床場面においても、患者の心理を一方的に解釈するのではなく、患者と分析家の間に生じている関係や経験を通して心の現象を理解することが重視されます。

この立場では、分析家は外側から観察する中立的な観察者として存在するのではなく、患者との関係の中に関与している存在として理解されます。患者の体験は、分析家の反応や理解の仕方とも相互に影響し合いながら現れてきます。そのため臨床作業は、患者と分析家の間に形成される間主観的な場の中で、体験の意味が共同的に見いだされていく過程として捉えられます。

D,オレンジは、この間主観性精神分析の立場に属する精神分析家の一人です。間主観性精神分析は、ハインツ・コフートの自己心理学に端を発し[9]、ロバート・ストロロウらによって展開されてきた理論的潮流であり、心の現象を常に関係的・文脈的なものとして理解しようとします[10]。この立場では、人の体験はその人が置かれている対人的・文化的・歴史的文脈の中で形成されると考えられます。したがって精神分析的理解もまた、個人の内面だけに焦点を当てるのではなく、その人が生きている関係や歴史の文脈を含めて捉えることが重要であるとされています

(4)間主観性精神分析からみたトラウマと解離

間主観性精神分析の立場では、トラウマや解離は個人の内部で起こる孤立した心的出来事としてではなく、人と人との関係の中で理解される現象と考えられます[11]。外傷的体験は、その出来事そのものの強烈さだけによって生じるのではなく、それを受けとめ、理解し、支えてくれる他者との関係が欠如しているときに、より深刻な影響を残します。耐えがたい経験をしたとき、それが他者との関係の中で理解されず、語ることも許されない場合、人はその体験を心の中で分断し、解離という形で保持することになります。

このように見ると、トラウマと解離は単なる個人内の心理的防衛ではなく、関係の失敗や断絶と深く結びついた現象であると言えます。語ることのできない経験は、沈黙や空白として心の中に残り続け、個人の生活や対人関係の中にさまざまな形で影響を与えます。またそれは、家族や社会の中で語られない歴史としても存在し続けることがあります。

間主観性精神分析は、このような語られない経験が人と人との関係の中でどのように保持され、どのように理解されていくのかに注目します。トラウマや解離の理解は、患者の内面だけを探ることによってではなく、患者と分析家の関係の中で生じる経験や意味づけの過程を通して深められていくと考えられています。

まとめ

三人の若い女性

トラウマや暴力の経験は、しばしば沈黙や解離という形で心の中に保持されます。それらは個人の内面だけでなく、家族や社会、歴史の中にも組み込まれ、語られないまま次の世代へと引き継がれていくことがあります。精神分析の臨床は、そうした語られない経験に耳を傾け、断片化された体験や記憶を少しずつ結び直していく営みです。患者と分析家がともに考え、感じ、意味づけていく過程の中で、沈黙していた経験は徐々に語られるものとなり、患者は自らの人生を新たなかたちで理解できるようになっていきます。トラウマ、解離、沈黙を扱う精神分析的作業とは、人が知りたくないこと、語ることが難しいことに向き合いながら、それを人間同士の関係の中で引き受けていく試みでもあると言えるでしょう

精神分析的な臨床において、トラウマや解離、沈黙といった問題を理解することは重要な課題の一つです。しかし、それらを臨床の場でどのように受けとめ、どのように扱うのかは、理論を学ぶだけでは十分ではなく、自らの体験を通して深めていく必要があります。

当オフィスでは、精神分析的精神療法を実践する臨床家のために、教育分析およびスーパービジョンを行っています。臨床の中で生じる転移・逆転移や、トラウマ、沈黙、解離といった問題について、具体的な事例をもとに検討しながら理解を深めていくことを目指しています。精神分析的臨床をより深く学びたい方、臨床実践について継続的に検討したい方は、教育分析やスーパービジョンの機会をご利用ください。

文献