愛着とアタッチメント-訳語と表記をめぐる臨床的・社会的含意

近年、心理臨床や当事者支援の領域では、愛着やアタッチメントという概念が広く用いられるようになっています。しかし、その訳語や表記の選択をめぐっては、理解を助ける側面と誤解を生む側面が併存しています。本稿では、これらの用語がもつ理論的背景と社会的影響を整理し、臨床実践においてどのように用いることが適切かを検討します。
目次
「愛着」と「アタッチメント」をめぐる用語の問題

最近では、心理臨床の業界や当事者団体において、「愛着障害」や「アタッチメント障害」といった概念が盛んに取り上げられるようになっています。これらの用語は、精神分析や発達心理学、精神医学といった専門領域に限らず、広く一般社会にも浸透しつつあります。しかし、その言葉の選択や用語の使い方をめぐっては、依然として複数の議論や課題が存在しているのが現状です。
まず、「Attachment」という語をどのように日本語に訳すべきかという問題があります。従来は「愛着」という訳語が主流でしたが、近年では「アタッチメント」とカタカナ表記を用いるケースが増加しています。これは単なる流行や表現の多様化にとどまらず、訳語の選択に伴う臨床的・社会的な意義が込められているという点に注意する必要があります。
「愛着」という訳語がもたらした理解と誤解
「Attachment」という英単語を直訳すると、「取り付け」「付属」「添付」といった意味になります。つまり、機械や道具が物理的に他のものに結びつく様子を表す言葉です。しかし、Bowlbyの理論が日本に紹介された際、この語は「愛着」と訳されました[1]。この訳語には、Attachmentが持つ情緒的側面、すなわち乳幼児と母親の間に形成される情動的な絆や信頼、安心感といった側面に着目し、単なる物理的な「結びつき」以上の「愛」や「愛情」という情感を強く込めた意訳であるという特徴があります。
この「愛着」という意訳は、日本語話者の心に響きやすく、理解もしやすいものでした。日本の文化や社会においては、「愛」や「愛情」といった価値が、家族関係や親子関係において重視されてきたためです。しかし一方で、「愛着障害」という言葉が用いられる際には、「親の愛情が足りなかった」「家庭に愛情が不足していた」といった単純な因果関係を見出そうとする向きが少なくありません。こうした誤解や短絡的な理解は、親を一方的に責める要因となり、当事者やその家族を不必要に傷つけてしまう場合があります[2]。
実際、カウンセリングや治療の現場においても、「愛情が足りなかったからこの人は問題を抱えている」といった短絡的な理解や、「だからこそ、心理臨床家が愛情を供給すれば良い」といった安易な介入がなされる危険性があります。このような理解や実践は、必ずしもクライエントのためになるとは限らず、むしろ問題の本質を見誤る結果につながりかねません。
「アタッチメント」表記の意義とBowlby理論の本質との関係
こうした背景を踏まえ、近年では「Attachment」をあえて「アタッチメント」とカタカナ表記する動きが広がりつつあります。この表記法は、「愛」や「愛情」といった日本語固有のニュアンスをいったん排し、より原語に忠実な形で用語を使用することで、誤った理解や短絡的な原因論を避けようとする社会的な意義を持っています。「アタッチメント障害」という表現を用いることで、「愛情不足=障害の原因」という不適切なレッテル貼りを防ぐ効果が期待されます。
しかし、ここには一つのジレンマが生じています。すなわち、Attachment理論の創始者であるBowlby自身が、その著作において「Attachment」という言葉に「愛」や「愛情」の含意を持たせていたという点です[3]。「アタッチメント」とカタカナで表記することにより、本来Bowlbyが意図していた人間関係の情緒的側面、すなわち「愛着」という意味合いが削がれてしまう可能性は否定できません。
この点を考慮するならば、むしろ「愛着」という意訳の方が、Bowlbyの理論の本質をより的確に表現しているとも言えます。彼のAttachment理論が描こうとしたのは、単なる「結びつき」や「依存」ではなく、個人の発達やパーソナリティの形成に深く関わる情緒的基盤、すなわち「愛」や「愛情」に裏打ちされた人間関係でした。
また、親の愛情不足といった単純化された原因論は誤解を招くものですが、それでも「愛」や「愛情」を除外した用語だけでは、クライエントの内面や臨床的体験を十分に理解することが難しい場合があります。むしろ、「愛着」という言葉を用い、愛や愛情の問題を意識しながらクライエントの訴えや体験に寄り添うことの方が、臨床的アプローチとしてはより適切である場合が多いと考えられます。
文脈に応じた使い分けと心理臨床家の姿勢
このように考えると、社会運動的な場面や政策的な議論においては「アタッチメント」とカタカナ表記を用いることで、親や家庭への責任論や愛情不足論といった不適切なラベリングを回避する意義があります。一方で、臨床現場や治療的な関わりにおいては、「愛着」という日本語表現の方が、クライエントの経験や心理をより的確に表現できる可能性が高いと言えるでしょう。
つまり、社会的・政策的文脈では「アタッチメント」、臨床的文脈では「愛着」というように、ある種の棲み分けや使い分けを行うことが望ましいとも考えられます。ただし、このような使い分けが、一般の人々や当事者にとって分かりやすいものとなるかどうかについては疑問も残ります。むしろ、用語の混在や理解の混乱を招く危険性もあるため、心理臨床家や支援者は、用語を選択する際に、その場面や相手に応じて、柔軟かつ丁寧な説明を心掛ける必要があります。
まとめ
Attachmentという概念の日本語訳や表記には、時代や社会の要請、臨床現場のニーズ、さらには理論の本質に対する理解といった多様な視点が複雑に交錯しています。「愛着」と訳すことで生まれる温かみや親しみやすさは、臨床的な強みとなり得ますが、その一方で、社会的な誤解や不適切な原因論の温床ともなり得ます。「アタッチメント」と表記することで誤解を防ぐことができる半面、理論の核心が伝わりにくくなるリスクもあります。結局のところ、心理臨床家には、こうした用語の歴史的背景や理論的意味、社会的影響を十分に踏まえつつ、その時々の目的や相手に即して最も適切な言葉を選び、クライエントや社会に誠実に向き合う姿勢が求められるのです。
本稿で論じてきたように、用語の選択や理論理解は、臨床実践の細部にまで影響を及ぼします。こうした問題意識を自らの臨床に引き寄せて検討するためには、個人の内省だけでなく、教育分析やスーパービジョンといった専門的な場での検討が重要になります。臨床場面で生じる迷いや判断の難しさを、理論と経験の双方から丁寧に見直すことは、臨床家としての実践を支える基盤となります。継続的な学びと対話の場として、教育分析やスーパービジョンの活用をぜひご検討ください。




